油断






 見上げれば、丸く切り取られた空が在る。憎々しいくらいに高く、青く澄み渡った空は、暗い壁とのコントラストも相まって余計に鮮やかで美しい。丁度天人の宇宙船もフレームから外れていて、それだけが唯一の救いだった。思い出に浸る程年寄りでもないが、やはり異形の船が飛んでいない空というのは気持ちの良いものだ。
 それもすべては、こんな状態で無かったら――の話ではあるが。



 無理な体勢をとっている身体はあちこちが痛く、とりわけ右足首の痛みときたら最悪だった。骨に異常は無いと思うが、挫いてしまったことは容易に知れる。
 声を張り上げる気にもなれないまま見上げた空に影が差した。穴蔵の中に居る土方を上から覗き込んだのは予想していた者の姿ではなく――。
「副長!?」
「……山崎」
 頭上に立つ男の名を呼んだ声はいつもと違って掠れていた。まるで重傷者みたいだと、胸の内で自嘲する。
「ちょっ、何やってんですかこんなところで!」
「見てわかんねーか」
 山崎は決して愚鈍な男ではないのだが、時折驚くほどに素っ頓狂なところがある。今も必要以上に浮ついた声で叫んで慌てていた。当然土方の機嫌は悪くなった。
「オイ、いいから手ェかせ」
「ア、はいよ!」
 土方が促してやっとそのことに思い至ったようである。山崎は足下に開いた大穴の縁に屈み込んで、深く掘られた穴の中に手を差し伸べた。
「大丈夫ですか」
 ああ、と返事してその手を取る。庇った右足が酷く痛んだ。気にくわない。山崎が腕を引っ張り上げた。漸く地上に足を踏み出した途端、刺すような痛みが右足首を突き抜けて、土方は思わずバランスを崩した。悲鳴を噛み殺せた自分を褒めてやりたい。
「副長!」
 咄嗟に手を伸ばした山崎の反射神経はなかなかのものだろうと思う。けれど。
「オイ」
「ハイ!」
 一拍置いて。助けたというのに不機嫌に唸られ、山崎は注意深く土方を支えた手を離した。
「副長、足……」
「大した事ァねえよ」
「駄目です!」
 土方はその剣幕に驚いた。山崎が自分に向かって大声をあげるなど、滅多にないことだ。
「ちゃんと手当して下さい。っていうか俺がしますから、さあ行きましょう」
「オイ……お前ッ」
 山崎は珍しく強引に土方の腕を取り、己の肩に回した。
「ホラ。歩けますか、副長」
「ああ」
 こんなところ、他の隊士に見つかったら笑われるのではないか。笑った奴は漏れなく手討ちにしてやるが。
 土方は副長にあるまじき考えを抱えながら、庭に面した部屋の内のひとつに運ばれた。


 土方に仕掛けられた罠は一枚の白い布だった。それが屯所の庭に植えてある木の枝に引っかかっていたのだ。それもいい具合に、土方の執務室を出て直ぐの廊下から見える位置に。
 それがただの布きれなら土方も放って置いたかもしれない。だが半刻ほど前に誰であろう真選組局長が、山盛りの洗濯物を鼻歌混じりで運んでいたのを土方は確認している。だからあれはただの白い布きれではなく――。
(近藤さんの褌だと思ったわけだ)
 周りに誰も居なかったことも相まって、風で流されて枝に引っかかったのだろう真選組局長の褌らしき代物を取りに、副長自ら靴下が汚れるのも厭わず庭に降り立った。とっとと回収しようと歩を早めた矢先、枝に辿り着く前に土方の足は柔らかい地面を踏み――。
 次の瞬間奈落の底へと落ちていたのだ。
 落とし穴などという子供じみた真似と、子供の悪戯では済まされないほどに深く掘られた穴。こんなことをするのは組内でもひとりしかいまい。だが、見事に罠に填った土方を笑うつもりだっただろう犯人の姿が見えない。
「オイ、総悟はどーした」
「エ。隊長ですか。饅頭食べてましたよ」
 土方の全身に付着している埃を払いながら山崎が答える。
「局長が買ってきたんで」
「ほーう」
 皆で仲良くおやつタイムというわけか。道理で居ないわけだ。土方が罠にかかるかどうかよりも、目先の食い物に釣られやがったというわけだあの糞餓鬼は。土方がこめかみに青筋を立てながら相槌を打つと、山崎は慌てたように「別に副長を仲間はずれにしたわけじゃないですよ!」と見当違いの弁解をしてきた。
「ああ? ンなこと別に怒っちゃいねえよ」
「だって……俺は副長を呼びにきたのに」
 少し拗ねた様子の山崎は、それでもきびきびとよく動いた。汚れた靴下を脱がして、素足に触れる手は用心深い。持ち上げた足首に土方が顔を顰めると「痛みますか?」と聞いてきた。
「ッ、別に」
「我慢しないで下さいよ。手当にならないでしょ」
「我慢なんざ……ッ、いっ」
「副長、ここは?」
 山崎の手が足首を離れて指先を押す。
「そっちは痛くねぇよ」
「じゃあこっち」
「痛くねえって」
「じゃあこれ」
 足首を動かす動作に土方は咄嗟に上げそうになった声を殺した。
「副長、正直に言って下さいよもー」
「て、てめッ」
 わざとやってるんじゃねぇだろうな、とはさすがに言えず。それにしたってやけに冷静な山崎が腹立たしい。
「骨に異常は無いですね。テーピングして固定しておけばかなり楽だと思いますが、冷やすのが先です」
 と、山崎は立ち上がった。



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041217


長いので分けます。

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