油断






「……オイ」
「ハイ?」
「足……」
「ハイ」
「感覚、無くなったぞ」
「じゃあ一旦外します」
 そう言って山崎は氷水の入った袋を土方の足首から外した。感覚が麻痺して触感がないのが奇妙な感じだ。
 たかが捻挫。湿布でも貼っていればいいだろうと楽観していたら、山崎曰く、捻挫の処置に大切なのは安息にしてまず冷やすことだといって冷蔵庫にあった氷を袋に詰めて持ち出し、患部に当てていた。
「それから副長」
「あ?」
「今日は風呂も酒も控えて下さいね」
「なんでだよ」
 沖田の悪戯によって土まみれになったというのに、そんなことを言われて土方は顔を顰めた。しかも酒も駄目だと?
「血行が良くなるから腫れますよ」
 他人事だからか、なんでもないことのように山崎はさらりと言う。
「うんと腫れますよ」
 念を押されて土方は黙り込んだ。山崎如きに言いくるめられるのは癪だが――うんと癪だが、ここは素直に従っておいた方がいいのだろうと頭では理解している。理解しているのだが。
「汗くらい流したっていいだろうが」
「あとで身体拭きますからそれで我慢して下さい」
 ――何?
「オイ、お前」
「何すか?」
「今、なんつった」
 聞き間違いか? 聞き間違いだろういくらなんでも。土方は耳にした言葉が信じ難く、山崎を見た。いつもは沖田のような派手な面々に隠れて目立たないが、仕事となるとそつなくこなすこの青年は、沖田に負けず劣らず真顔でとんでもないことをやらかす。今もふざけているようには到底見えない顔で、だからこそ真意が汲めない。
「身体拭きますからって言いましたよ」
「誰が」
「俺が」
 やはり真顔で答える男に、ひきつるこめかみを軽く押さえながら辛抱強く土方は聞き返した。
「誰を」
「……副長以外に誰が居るんすか」
 やっぱりこいつはどこか頭のネジが緩んでやがる。
「アホかァァァ! テメーに拭かれんでも自分でやらァ!」
 こうなるとすぐさま飛びかかって殴れないのが歯痒い。けれどもその分思い切りよく怒鳴ってやれば、山崎ときたら「あ、そうか」だなんて言ってポンと手を打っていた。天然か。天然かコノヤロー。
 まったく俺の周りにはろくな部下が居ねェな!
 そう憤っていたら、不意に肩と背中に手が触れた。「あ?」と思った矢先に視界がぐるりと巡る。呆然とした目に入ったのは天井に走った木目だった。しみの数まで数えられるくらいよく見える。
「あ?」
 なんだ? どうした? 疑問がそのまま口をついて出た言葉は短かった。
「安静にして下さいって言ったでしょう。患部は心臓より高くしないと」
 山崎の声が耳に入る。それをよく聞いて理解した。つまりこれは、山崎が行ったのだと。
「てめェ、副長の俺を押し倒すたァいい度胸じゃねえか」
「いや、押し倒してはいませんよ。寝かせただけです」
「屁理屈抜かすなァ!」
 沈着冷静に言い返す山崎に土方が吠えた。そのまま起きあがろうとした土方の肩を、山崎は軽く押しとどめる。腹筋の力でいくら起きようとしても、肩を押さえられては身動きがとれない。
「てめー、退けや」
「駄目です。安静にしろって言ってるじゃないすか」
「あのな……」
「じゃないと襲いますよ」
「は?」
 肩に篭められた力が増した。
「え?」
 山崎は恐ろしいくらいに真顔だった。
「副長……」
「ちょ、オイ!?」
 この男はいつでも大真面目な顔で冗談のようなことをする。仕事中にラケットを振り回したり、簡単な餓鬼の使いも満足に出来ないことだってあった。だから――。
 今、大真面目な顔で息ひとつ乱さず、眉ひとつ動かさず、難なく土方の身体を押さえつけ、顔を寄せて来る部下の姿に、土方の心は焦り、理解できないものに対しての軽い恐怖すら覚えた。
「山崎待てッ、早まるな!!」
 クソッ、こんな時にどうして誰も来ないんだ!
 土方の心の内を読んだのか、目の前の男は「誰も来ませんよ。面会謝絶の札を出しときましたから」などと言う。最早冗談なのか本気なのか全く読めない。
「副長」
「ちょっ、と待てェェ!!」
 土方が絶叫した刹那。
 ヒヤリとした予感に山崎は即座に畳に身を伏せた。
「なッ!?」
 土方の悲鳴。大きな音。何か解らないが恐ろしいものが風を切って頭上を掠めた。
 伏せていなければ頭を直撃していただろう。悲鳴すら出なかった。
 恐る恐る顔を上げて、そっと首を巡らした瞬間、目にした光景に喉が引きつる。

 柱に。
 スコップが突き刺さっていた。

「ちょっと総悟くん! 何してんの!」
「すいません近藤さん。手が滑っちまいやした」
 そんなやりとりが部屋の外で聞こえてきて血の気が引く。近藤に落とし穴を見つかった沖田は罰として落とし穴を塞いでいたのだ。一体何をどうしたらこうなるのか解らないが、見事に柱に突き刺さっているスコップを使って。
 非常にヤバイ気がする。山崎の背中に冷たいものが流れた。
 山崎から解放された土方もまた、嫌な予感に顔を歪ませている。
 壊れた障子が音もなく開く。現れたのは真選組の中でも飛び抜けて幼い顔をした――実際若いのだからそれは当たり前だが――沖田だ。いつも通りの、つるんとした無表情で上がり込んでくる。――ただしいつもと違って土足で。
 沖田は畳の上に盛大な足跡を付けながら、緊張に身を硬くしている山崎を無視して真っ直ぐ柱へと向かった。未だに突き刺さったままの――それが異様な光景で恐ろしい――スコップの持ち手を掴んで、引っこ抜く。それを肩に担いで、山崎の顔を一瞥した。
 蛇に睨まれたカエルだって、今よりもう少しマシな気持ちに違いない。
「山崎」
「ハイィイ!?」
 声が裏返ったのはご愛敬だ。お願いですから愛嬌ということにしておいて!
「次はテーピングだろィ?」
 常識的とは言い難い行動を起こしている沖田に、至極真っ当なことを言われ、山崎はそれを飲み込むのに少々時間を要した。ぼけっとした顔をしている山崎に「違うのかィ」と沖田は再度訊ねる。
「はいっ、そうですっ!」
「それからコレ」
 沖田は自分の足下へ視線を投じた。畳にくっきりと足形がついている。
「はいっ、拭きます!」
 無言の圧力に山崎は堪えきれず部屋を飛び出した。汚れた畳を拭くため雑巾を持ってこないといけないのだ。
 部屋の中に残された土方は舌打ちする。よりにもよって沖田と二人きりにするのかあいつは!
「土方さん」
「なんだよ」
「油断大敵ですぜ」
 ぬけぬけとそんなことを口にする沖田に堪忍袋の緒が切れた。
「てめェが言うなァァァ!!!」

 怒髪天を突く絶叫は屯所中に響き渡ったらしい。
 


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041231


この話の総悟はお兄ちゃんをとられそうになった弟です。

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