「ホラ、いつまでもそうやって泣いてたって仕方ねえだろ」
呆れきった声音で土方は白いシーツにくるまれた物体に声をかけた。保健室の、決して寝心地がいいとはいえない細いパイプベッドの上、巨大な芋虫が鎮座して震えている。芋虫といっても目が覚めたら毒虫になっていたというわけではなく、ただ単にその身体に白いシーツが巻き付いているだけ――いや、自ら包まれているといったほうが正しい。中身は土方の親友である近藤だった。彼は授業中に起こったとあるアクシデントのため、身も心も大いに傷ついてここにいるのだが、そんな親友に対し土方は呆れた素振りをしつつ、その実ちゃんとつき合ってやっているのだ。
「いい加減にしねーと手当できねーだろうが」
土方がそう言うと、芋虫は「トシィ……」と篭もった声をあげた。
「ンな、恥ずかしいことできねえよォ」
「今更恥ずかしがるなよ。それとも保険医にやってもらったほうがいいってのか?」
「いやそれは困るッ」
シーツに包まれたまま近藤は慌てて応えた。ふう、と土方も安堵の息をつく。ここで土方の案を「そりゃいい考えだ!」とでも肯定されたら立ち直れない。
「だから、俺がやってやるってんだから観念しろよ」
そのために必要な道具は揃えてある。もぞりとシーツの中から近藤が顔を出した。
「トシ」
「なんだよ」
「あのな……お前、笑わねぇ?」
「なにを」
「だって俺ケツ毛だるまだから」
「……そりゃァ、知ってる」
「……」
二人の間に沈黙が流れた。
「やっぱ嫌だァァァ!!」
「ちょっ! アンタなあ……」
再びオイオイ泣き出した近藤に土方は軽く舌打ちして頭を掻いた。どうしてこう、上手くいかないのか。
「いい加減にしとかねえと無理矢理脱がして薬塗るぞ」
げんなりとした様子で呟いた土方の声も、近藤の泣き声によってかき消された。
話は何時間か前に遡る。
事件は教室で起こった。
授業のために教室に入ってきた担任の坂田が、志村妙のリコーダーが何者かによって盗まれたと告げたのだ。妙は可愛らしい容姿の一見しとやかそうにみえる娘だが、その本性はかなり凶暴である。まだ盗まれた証拠も挙がらぬうちから、犯人を見つけたら「縦笛をケツに突っ込んで『翼を下さい』を一コーラス歌えば許してやる」と担任に宣ったことからも窺い知れよう。今から思えば、およそ犯人の見当がついていたのだろう。
その馬鹿馬鹿しくも非人道的な報復をそのまま口にした担任に異議を唱えたのは土方だった。だというのに。
よりによって自分からリコーダーを二つ所持していることを暴露してしまったのは近藤自身だった。そのため彼は、哀れ教室中の生徒が見ている中、志村の報復に合ったのだ。つまり、ケツに縦笛を突っ込まれるという不名誉で格好悪い事態に陥ったというわけだ。――服の上からだったのは唯一の救いだったのかもしれない。ただ単に志村が近藤の生尻を見たくなかっただけかもしれないが。
好きな娘にそのような目に遭わされても尚、近藤は妙のことが諦め切れぬらしい。そのしつこさは脱帽ものだと思い、土方はまた、己も人のことは言えぬかと自嘲した。
「なあ、オイ」
土方はシーツにくるまって泣いている幼なじみに声をかける。確かに、恋をすれば周りが見えなくなるところは難点だが、この男の性格の良さは胸を張って保証できるというのに、どうしてもてないんだろう。なぜ女は解ろうとしないのだろう。
「ケツ痛ェんだろ、診てやるから」
ついでに薬も塗ってやるから――と。誰もがやりたがらない仕事を土方は平気で口にする。
「トシィ……痛ェよォ」
「だから診てやるって言ってんだろ。ホラ、さっさとケツ出せよ」
だがその土方の声に応えたのは近藤ではなかった。
「ケツに薬塗ってやるの? やーさしーい」
俺ならゴメンだね、と。突然背後から上がった声に土方は驚く。振り返るより先に肩に感じた重みに、肩に顎を乗せられているのだと知る。頬を掠める髪の毛はきっとあちこちに撥ねていて銀色をしてることだろう。咽せるくらいにきつい煙草の匂いがその存在を嫌というほど主張していた。
「俺も手当して」
「銀八先生ェ!」
ベッドの上の近藤も、驚いた声音でその男――土方と近藤のクラス担任――の名を呼んだ。土方の身体が緊張で固まる。一体いつ入ってきたのだろう。全く気づかなかった。
「よぉ、ケツの具合はどーだァ?」
男は土方の肩から顎を退かし、隣へ並んだ。無遠慮な軽口に土方が驚いていても気に留めぬ様子だ。
「痛ェよ先生〜」
「そりゃそーだろうな。縦笛突っ込まれたんだから」
いやー、イイ突っ込まれ方だったぜ、と。下手をすればトラウマになりかねないことを男は飄々と口にした。その配慮のなさに土方は苛立ちを押さえられなくなってきた。志村の笛を盗んだ近藤は確かにいけないと思う。が、あんなふざけた報復を止めなかったのは誰であろうこの教師ではないか。なのに一体何をしに来たのだ。見舞いにかこつけて近藤を笑いに来たのか。だったら許せない。
「止めて下さい先生」
厳しい口調の言葉が土方の口から飛び出した。
「オ、オイ、トシ?」
突如豹変した土方の様子に、ベッドの上の近藤も面食らう。
「生徒をからかうのはそんなに楽しいですか」
「あー? 楽しいよ。コミュニケーションの一環としてな」
「先生はもう少しデリカシーを持った方がいいんじゃないですか」
「デリカシー? なんですか? ピザですか?」
相変わらず、男の目は死んだ魚のような目をしている。情熱も誠実さも、教師に必要なものだろうにそれらの何一つこの男から感じることはない。銀八先生だなんて生徒に呼ばせているが、それはドラマの熱血教師をもじった渾名で、実際は坂田銀時という。『銀八』だなんて呼ばれる資格など無いのだ。なのにどうして皆はこの男の言う通りにするのだろうか。土方はそれがどうしても解せない。
「失礼します!」
これ以上、この空間に居るのが苦痛で。土方は愛想もなく言い捨て踵を返した。近藤には悪い思う気持ちを置いて――。
2.
廊下に出ると、土方は知らず詰めていた息を吐いた。近藤の具合は気になるが、これ以上あの場にいて、何でもない顔をしていられる自信はない。
近藤と、坂田と。自分が彼らに対して一言では言い表せない感情を抱えているという自覚はある。土方は保健室の扉を振り返った。
放課後ともなれば夏の強い日差しも幾分弱まっている。その光に照らされた空間。しかしいつまでも未練がましく見ていても仕方ないので、土方は扉から目を逸らした。と、その途端、扉が開く音。
そして閉められる音。
背後から感じる視線に土方は動けない。妙な緊張感が身体中をゆっくりと支配した。緩やかでいながら、縛られるような感覚は近藤のものではない。これは、あの男特有の気配だ。
落ちつかない。早くこの場を離れてしまいたいのに、たった一歩を踏み出せない。きっかけが掴めなくて気持ちだけが妙に焦る。
「お前さァ……」
のんびりとした口調で切り出した担任の言葉に土方は身構えた。
「そんなに好きなんだ?」
今まで、どんな軽口だって聞いてきた。だからいい加減に耐性くらいついたっていいはずなのに。――投げかけられた台詞に思わず反応して振り返ってしまってから思う。
目に映る姿は先程と変わらない。だらしなくよれた白衣。癖の強い銀髪。ただ眼鏡のレンズが午後の光を反射して、表情を分かり難くさせていた。だが、珍しく緩んだ口元は口角が引き上げられている。
からかっているのだろう、と思う。けれど。なぜ、とか。どうして、とか。胸中を複雑な感情が駆け抜けて、無性に腹が立った。
睨み付けて、文句のひとつでも言ってやりたい。けれども、ここで言い争っていては中にいる近藤に気づかれる恐れがある。そう思って一旦口を噤んでしまうと、何を言えばいいのかまで解らなくなってしまった。
――俺は、アイツに、何を言いたかった?
自問しても答は返ってこない。ただ胸の中が苦しいくらいに淀んだものが渦巻いていて、息まで止まりそうだ。
そんな風に立ちつくした土方の頬に、男の手が触れた。ハッとして顔を上げれば、いつの間に傍に寄ったのかもしれない担任の姿。嗅ぎ慣れたはずの煙草の匂いがきつい。
「苦しィ?」
耳を擽るような男の声。こんな柔らかさを知っているのは己だけだろうかと、愚にも付かないことを考える。そんなことどうだっていいのだ。
「ホラ、息して」
素直に吸い込んだ空気は煙草の匂いがして眼が眩みそうだった。
冒頭。