「ちちんぷいぷい」本文サンプル

 





 耳を澄ませれば広間の喧噪がかすかに聞こえる。きっと宴もたけなわなのだろう。時折どっと笑いが起こっていた。
 広間から離れた土方さんの部屋の中は静かで、そんな宴の喧噪は遠い。
 近いのは衣擦れの音。乱れた呼吸音。
「そ、うご……ッ!」
 切羽詰まった土方さんの声。
 辛いのか、痛いのか。きつく目を閉じている。だが痛いのかと聞いた所でこの人は答えはしないだろう。眉間に深く刻まれた皺や、額に浮いた脂汗から察するしかない。ただ、先程から汗と精液の匂いに、かすかだが血のそれが混じっているのは解った。切れて出血しているのだろう。だがそれが解ったところで、この行為を止める訳にはいかなかったが。
「そうご……ッ」
 叱責する声にいつもの威勢はない。怒声とはよべない声。 こうして俺と土方さんとの初めての共同作業は、土方さんが酷く痛がって終わった。





 翌日。
 土方はそれはもう酷い顔をしていた。
 寝不足から来る隈が、整ってはいるが無愛想な顔をさらに凶悪に見せている。不機嫌なしかめっ面を取り繕う気もないらしく全身から殺気をぷんぷんと漲らせているので、隊士達も戦々恐々といった様子で鬼の副長を遠巻きに見守っていた。機嫌の悪い鬼に自ら近づくような物好きは早々いないものだ。迂闊に近寄れば斬って捨てられかねないのだから当然である。
「そんなに痛かったのかねェ」
 土方があれほど不機嫌なのは、未だに身体が痛むからなのだろう。仕事で受けた傷ならあの男は驚くほど上手に上っ面を取り繕ってみせるのにそうしないのは、沖田への当てつけだと思われる。
 確かに男の身体は女のそれほど柔軟性に富んでいるわけではないし、ましてや受け入れるような作りではないのも解っている。そんな男の身体をどうすればいいのかは、自分なりに勉強したつもりだ。予習していたとはいえ自分も初めての本番に緊張し、些か余裕をなくしていたのも事実だ。けれどその余裕のない状況でありながら沖田は――そんなに悪くなかったのである。何がというと、その行為が。
 むしろ余裕がない割には、少し良かったくらいだ。それまで溜まっていたものが昨晩解放されたのだから、ある意味清々しい気分だった。
 だからこそ、土方のこれ以上ないくらいの仏頂面を見ているとなんだか少し気に入らない。まるで自分との行為がまったくもって不愉快なものでしかなかったと言っているようだったからだ。まさかそんなはずないだろうと沖田は思っている。
 なぜなら、それこそか弱い女ならいざ知らず――沖田自身は女をそれほどか弱い存在だと思った事はないが――男の土方なら、しかも普段鬼の副長などと呼ばれ己の喧嘩の腕前に絶対の自信を持っている男なら。本気で嫌だというのなら沖田をどうしてでも退かせる事が可能だからだ。それこそ死にものぐるいで抵抗し、沖田を斬り捨てる。それが土方という男ではないか。
 なのに土方はそうしなかった。確かに無理矢理身体を開いたのは否めないし、土方も相当に痛がっていたように思う。けれども結局最後まで致したという事はだ。
 土方も少しは良かったのだろう、と思うのである。

「土方さん」
「何の用だ」
 沖田が声をかけると、その一言とともに不機嫌な鬼は一層凶悪な顔で睨みつけてきた。しかし他の隊士達ならいざ知らず、今さらそんな顔に怯えるほど沖田は可愛らしい性格をしていない。土方は昨夜の事を悪びれもしない様子で近づいてくる沖田に若干警戒の色を浮かべているように見えた。眉間の皺は消える気配もない。
 だがしかし、なんだかんだ言ってもこの男は最後まで許した。額に脂汗を浮かべ、辛そうな顔はしていたが、超えるべき一線は超えた。そして沖田はまったくの無傷という事は、土方にも少しはその気があったという事にならないか。事実、最後の方には土方も快感を拾っていたように思う。
 それなのに土方は苛立っている。その苛立が身体を苛む痛みによるものだというなら――痛みが消えてしまえば問題は解決するはずだ。
「用がないならとっとと失せろ」
「冷てェお人だなあ。用ならありますぜ」
 土方の言葉はにべもないが、沖田は構わず仏頂面した男へ手を伸ばした。瞳孔の開いた目がそれを見据える。警戒はしているが、怯んだり恐怖を感じている顔ではない。あくまでも毅然とした態度の土方を前にして沖田の口からこんなフレーズが飛び出した。
「ちちんぷいぷいちちんぷい。痛いの痛いの――」
 飛んでけー、と。子供じみた声が呑気に響き渡った。土方は虚を衝かれたといった様子で沖田を見やる。
「……オイ」
「ハイ」
「何の真似だ」
 土方の目が鋭く沖田を睨みつけるが、沖田はわずかに首を傾げてみせただけだった。その白々しい動作だけでも十分に腹立たしい。
「だって土方さんが痛くて痛くて堪らねェって顔してるから」
 言い訳を聞くと尚の事腹が立つ。
「ふざけんな。俺がいつそんな顔したってんだ」
「おや? 自覚が無ェんですかィ。眉間シワシワの仏頂面しやがって見苦しいな。相当耄碌しちまってますねィ」
 自覚があった、とは言い難いが元々土方はにこやかな笑顔などしない男で仏頂面など珍しくも何ともない。むしろ笑顔でいる方が不気味であり眉間に皺寄せ厳しい表情でいる方がまともに見える。なので沖田の言う事は言いがかりにも聞こえた。だが不機嫌だったのは事実である。
 起床した時点から感じていた身体の違和感も、重く鈍い痛みを訴えてくる腰も、すべての原因は一体誰にあるのか。不愉快極まりないが、土方は愚痴愚痴と追求する性格でもない。
 それを良いことに沖田は続ける。
「そんなあちこち身体が痛くてたまらねェ土方さんのために魔法をかけてあげたんですぜ。感謝して欲しいくらいでさァ」
「勝手な事言うんじゃねーよ! ってかアホな事言ってねーで仕事しろ!」
 何が魔法だ。何がちちんぷいぷいだ。そんな子供だましが通用するのは年端もいかぬ子供だけだ。当然土方に効く道理がない。だから感謝する謂れなどないのだ。
 土方は沖田を一喝するとそれ以上関わるのはご免だとばかりに背を向ける。
「やれやれでさァ」
 沖田は足音も荒く去っていく土方の背中を見送りつつ肩を竦めた。あの様子ではしばらく土方は部屋から出てこないだろう。なら自分が仕事をさぼっても咎める者はいまい。沖田はポケットに入れっぱなしのアイマスクを取り出すとそれをくるくると回しながら休憩室へと向かった。
 


 一方土方は――。
「総悟の野郎、ふざけやがって」
 勢いよく自室の障子を開き、力任せに閉める。沖田と異なりこちらは仕事をする気満々の様子だ。本当は気もまぎれるし身体も動かせる外回りの仕事の方が好きだったのだが、今日は腰が怠くて動く気がしないのだった。それもこれもすべてはあの鬼っ子が無茶をしたせいである。
 文机を前にどっかりと胡座をかき、苛立たしげにポケットの煙草を漁る。一本銜えて火をつければ、紫煙の香りが広がった。
 一本吸い終わる頃には、少しは気持ちも落ち着いてくる。
 身体の不調についてはもうどうしようもない。怠かろうが痛かろうが堪えるしかない。泣き言を口にするなど真っ平だ。たとえどんなに辛かろうと――と、そこで土方はある変化に気づいた。それを自覚した瞬間、酷く自分が狼狽するのが解った。
 どういう事だ?
 自問するが、答えなど出ない事は百も承知だった。自分でも信じられない事が我が身に起こったのだ。それは土方の身体に関わる事態だった。
 今朝起きた時から動かそうがじっとしてようが土方を苛んでいた身体のあちこちの痛みが、嘘のように無くなっていたのだ。
 あれほど不快感を煽っていものが無くなるなど俄には信じられない事態だが、事実である。
 一体なぜ? 理由を考える土方の脳裏に浮かんだのは沖田の唱えた「ちちんぷいぷい」だった。
『痛いの痛いの飛んでけー』
 およそ心など籠っていないように思える棒読みの呪文。親が子に唱えるなら精神的に何らかの作用があるかもしれない。子供だましだからだ。
 しかしそんなもので本格的に苦痛が取り除かれるなどあり得るわけがない。当たり前だ。そんな簡単な事で痛みが消えるのなら医者はいらない。広い空に異形の船が飛ぼうと、天人と呼ばれる異星人が江戸の街を闊歩しようと、それはこの世の道理である。だからこの屯所でそのような非科学的な事が起こるはずがない。
 偶然だ。
 土方はこの出来事を偶然だと結論づけた。
 ――そのためこの時己の身体に起こった重大な変化を見落としてしまったのである。


冒頭です。

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