「雪豹の輪舞」本文サンプル 

 





「だからあれは豹ではないと言っておろうが」

 そう言い放った後不機嫌に歪んだ顔がアップでテレビ画面に映された。
 明らかに苛立ちを含んだ声と、額に浮いた青筋。それらはニュースキャスターによる再三の質問に、そろそろ我慢の限界が近いのだろうということを如実に証明していた。ゲストコメンテーターの席に座したまま、男は余程気分を害したのかふくよかな顔をむっつりと顰めている。
 丸く整えた眉におちょぼ口。ふくよかな頬。まるで平安時代の貴族を思わせる顔立ちに、喋り方までそういった印象である。だが平安貴族のような、と言ってしまうには少々難があった。それは肌の色もさることながら、髪型や身につけている服も奇妙奇天烈だという事。そして何よりも違和感を与えるのは、丁度額の位置ににょっきりと生えた触角のようなものの存在だろう。――男は日本人ではなかった。それどころか、この星に住む人類ですらなかった。
 天人――宇宙からやってきた異人の総称であり、この男もそう呼ばれる存在のうちの一人である。さらに詳しい情報を述べるなら、男は央国星のハタ皇子といって江戸幕府にとっての要人でもあったのだ。
 しかし、一口に要人といってもその種類は千差万別である。この国の政治に関わる程の影響力を持つ者は基本的に人前に姿を現す事はなく、一般にその存在を知られる事もない。そういった意味でこの皇子は『動物好き』を謳いテレビを通じて人前に出る事の多い俗人だといえた。
 そしてこの皇子は動物は好きだがこの国――というよりもこの星に住む人間に愛情は持っておらず、その上本来なら長所であるはずの動物好きも周囲の迷惑になるレベルにまで達している事もあり、多くの人々から反感を持たれ『バカ皇子』などと渾名もつけられていた。
「なら何じゃと? 愚か者め。猫に決まっておろう」
 豹ではないなら何なのだという質問に対し、皇子は見下したような顔で返事を寄越した。 豹ウィルスと呼ばれるウィルスが話題になったのはつい最近の出来事だ。 感染すると身体が豹化してしまうなどという、冗談のようなウィルスの話である。幸い感染しても全員がメタモルフォーゼするわけではなく、詳しくはまだ解明されていないが体調や体質などによって変化するらしい。元々この国、いやこの星自体にあるはずもないウィルスなだけに、入国管理局も持ち込み経路の確定に素早く動いた。
 その結果あっさりと浮上したのが央国星のハタ皇子の名だったのである。
 皇子はこれまでにも前科があったのでマークされていたというのが正直な話だ。ただ、腐っても幕府の要人ときてはおいそれと手出し出来ぬのが役所勤めの悲しい所だった。強制的に事情聴取をするわけにもいかない中、入国管理局側としても頭を悩ませていたのだが、マスコミは違った。
 皇子が可愛がっていたペットが逃げ出してかぶき町に多大な被害を出し、そしてそれを緊急特番のテレビ放送で暴露してしまった事は記憶に新しい。そして週刊誌は明らかに怪しいとされる獲物を逃すはずがなかった。今回のウィルスの一件には某O国星の皇子が関わっているらしいという事、そして下手に手出しすると外交問題になりかねないという事など、こぞって書き立てたのだ。元々疑われて当然の人物だっただけに噂はすぐに世間に広まった。その結果、皇子は自分の無実を証明するために報道特別番組への出演を決めたらしい。のだが。
 黒か白かと問われれば間違いなく黒だろう。そしてテレビ局側も何らかのハプニングを期待している。事実、以前番組内で皇子自ら己が混乱の原因である事を暴露した時の瞬間視聴率は洒落にならない数字だったという。番組プロデューサーが二匹目のドジョウを狙うのも無理はない。
 そんな罠に皇子がのこのことかかってしまうのには理由があった。
 天人は例外は有れどそのほとんどがこの星に住む人々を見下している。宇宙を渡るだけの技術力、科学力、それらが地球よりも遥かに高いレベルに達している彼らにとって、江戸の民など地を這う虫のようなものだという認識であるのだ。皇子もそういう考えの天人の一人である事には違いなかった。ただ、他の有力な天人と違うのは彼は彼が見下している民衆から『バカ皇子』という称号を与えられている事だった。化け物じみた力を持っている事が多い天人の中において、ハタ皇子は体力知力ともにこの星の人間と大して変わらぬ――下手をすれば劣るくらいの力しか持ち合わせていなかったのが原因の一つと考えられよう。それからもう一つ。
「全くタマの奴め。あやつが注射を嫌がるからややこしい事になるのじゃ」
「なんですか。その注射というのは」
「予防接種の事に決まっておろう。元々保有しているウィルスの働きを抑制し、人に感染させぬ為のな」
「お前今なんつった」
「え? なんか今マズイこと言った……あ」
 うっかり罠にはまるどころか自ら墓穴を掘ってしまうあたりが、ハタ皇子が『バカ皇子』と呼ばれる所以なのである。

 ここで番組は一時中断し、画面は「しばらくお待ち下さい」という文面へと切り替わった。生放送でのハプニングにはつきものである。だが、ここでまたテレビは報道特別番組から朝のワイドショーへと映像を変えた。先程までのプログラムは過去の映像を再生したものだったのだ。
 スタジオ内に設えたスクリーンにもう一度映し出されたバカ皇子の顔には乱闘の痕が窺えた。おそらくコマーシャルの間にやられたのだろう。鼻につめたティッシュに哀愁が漂っていたが同情など湧くはずもない。ワイドショーのキャスターもコメンテーターも皆形ばかりに神妙な顔をして「凄かったですねー」などと白々しいコメントを交わしていた。
 やはりバカ皇子はバカだった。
 性懲りも無く墓穴を掘ったハタ皇子に対し、出演者も、テレビを視聴していた誰もがそう思った事だろう。
 それはここ――真選組でも同じだった。
 だがつるんとした無表情でテレビを見ていた沖田に比べ、副長の土方は嫌悪感を顔中に滲ませている。そんな顔で吸う煙草の味はさぞや苦い事だろう。
 と、土方はフィルターを噛んだ煙草を乱暴に灰皿へと押し付けた。苛々とした様子で立ち上がる土方に沖田が目を向ける。
「土方さん、どこ行くんでィ」
 障子を開けた絶妙のタイミングでかけられた声に、部屋を出ようとしていた土方は眉間に皺を刻んで振り返る。
「部屋」
 短くそれだけを言い捨て、ぴしゃんと障子を閉める。荒れた足音に板張りの廊下が軋んだ。沖田はさっさと出て行ってしまった土方に「やれやれ」と言葉だけで呆れてみせ、まだ続いているワイドショーのつまらない茶番を終わらせるべくリモコンのボタンを押した。
 プチン、と音をたててテレビの電源が落ちた。
   



 土方の不機嫌についてその理由を正しく知る者はそれほど多くはいない。そして沖田は正しく理由を知る者のうちの一人だ。
 豹ウィルス。
 土方の不機嫌の原因である。そのウィルスにかかって変身した姿は紛れもなく豹そのものだった。
 しかしそれはほ乳類にしか感染しない事と、もし感染し発症したとしても元の個体の大きさに左右されるため、犬猫など小型の動物が感染してもそれほど被害は深刻にならなかったのだ。
 けれどもそれが人間に感染したとなると少々厄介だった。なぜなら成人男性の身長と本物の豹の体長は、実は大して変わらないのだ。しかも江戸の民にとってこれは未知のウィルスである。誰も自分の身体が獣化するなど思っていないのだから、そうなった時の混乱は計り知れない。その上変身以外にどういった影響を精神や肉体に与えるのか解らないのだ。もしも自我を保っていられないというなら、相当に危険な状況へと陥ることになる。
 だが幸いな事に特効薬がすぐに手配されたため、事態が終息した今となってはそれほど心配する事も無かった。けれども最初に感染したと思われる男は違った。
 男は自責の念にかられているように思えた。
(別に気にしなくたっていいのにねィ)
 沖田は交互に両肩を回した。肩に巻かれた包帯はすっかり外され、動きを妨げるものは何もない。元々大した怪我ではなかったのだ。それを仲間が大げさに包帯など巻くから大事に見えただけである。
 けれどもあの人は気にしているのだろうと思う。心配する素振りなど決して見せはしないけれど、本当は悔やんでいるに違いない。長い付き合いだからそれくらいは解る。
 少し前の話になるが、沖田は両肩を負傷していた。武装警察の任務で受けた傷ではない。とある動物に襲われ、その爪に傷をつけられたのだ。
 その生き物というのが誰であろう、ウィルスに罹って黒豹化した土方だったのだ。
 そもそもウィルスのオリジナルの保菌者はハタ皇子の飼っていた猫である。皇子は猫だと言い張っていたが、実際は姿形こそ地球の猫によく似てはいるがどこか辺境の星に生息する動物だったらしい。そして土方は要人警護の折り、逃げた皇子の猫を捕獲し、その猫に手の甲を引っ掻かれウィルスの保有者になった。そして発病し黒豹化した。だからこそ土方は先程ハタ皇子が繰り広げた茶番を見て不機嫌になったのだろう。
 獣へと変化した土方は意識が混濁していた。人間としての意識と、獣の本能。だから沖田の負傷は土方の本意ではないくらい解っているのに、彼にはそれが許せない。
(バカだなあ土方さん)
 心の中でそっと、沖田はひとりごちた。




 廊下の床板を踏み抜かんばかりに激しい足音を立てて土方は自室へと向かっていた。無性に苛々するのは先程まで見ていたワイドショーが原因だという事は解りきっていた。止せばいいのに下らない番組を見続けてしまった自分に腹が立つ。
 豹ウィルスなどという冗談めかしたウィルスに感染しまんまと黒豹化してしまった事も、それが原因で沖田に怪我を負わせてしまった事も、結局は己の甘さ、過信が招いた結果である。それまでにも何度か事件を起こしているよう注意人物に対し、警戒が足りなかった。土方が注意さえしていればそのような事は起こりえなかっただろう。真選組副長という立場にありながら、考えられない失態だ。
 その上、土方が黒豹と化した時、局長である近藤は出張のため不在だった。近藤がいない間、真選組を預かるのは副長の土方以外にない。だというのに。
「糞ッ」
 テレビに映ったハタ皇子の顔に怒りを覚えた所でどうしようもあるまい。もう終わった事である。近藤にもその件は伝わっていない。土方が黒豹化した事を知っているのは組内でもごく一部の者だけで、その一部の人間である沖田が何も言わないのだ。いつもなら土方の失態を吹聴して回る男がである。
 そんな沖田と二人でテレビの前に座り、件のウィルスや皇子の話などを黙って視聴できるわけがない。しばらくは我慢していたもののやはり耐えられなくなり飛び出してきたが、それが逃げているようで余計に気に入らない。
 胸やら腹やらがむかむかしてどうにも気分が悪かった。
 とにかく今は一人になって落ち着きたかった。そうして自室の前にたどり着いた土方は、半分ほど開いている障子に疑問を覚えたにも関わらず、勢い良く仕切りを開いた。
 そして、目に飛び込んで来た光景に言葉を無くした。
 



 開いた時と同じ勢いで障子が閉められる。粗暴な扱いに木枠が傷むかもしれなかったが、土方にそれを気遣う余裕はなかった。
 ――何だ今のは。
 部屋の前で暫し黙考する。動悸が早い。今しがた目にしたものが信じられないのだ。
 ――何だ、あれは。
 落ち着け。落ち着け俺。土方は板張りの廊下に目を落とし、激しく鼓動を打つ心臓を宥めるように深呼吸をした。なのに嫌な汗が皮膚に浮き出てくる。
 部屋の中に、ありえないものがあった。いや、部屋の中にいた。だがしかしそれは突拍子もないようなものでありながら、実はそうともいえないことを土方は知っていた。なぜなら先程まで見ていたテレビ番組の内容とそれは密接な関係があったからだ。
 しかし、それがなぜ土方の部屋にあるのか。
 しばらく考えてみたが納得のいく答えなど出るはずもない。そうなるとどうしても現実逃避してしまうのが人間の性である。つまり、先程のあれは見間違いであったのだと。土方もそう結論づけて、落ち着きを取り戻した後、一気に障子を引いた。
「!!」
 望みは薄いと解っていたが、土方の希望は叶えられなかった。先程目にした光景は見間違いなどでは勿論なく、確かに現実であったのだ。引いたはずの汗がまたじっとりと肌を湿らせるのを感じる。と、その時。
「副長、どうしたんですか?」
 何気なくかけられた声にびくりと身をすくませた。見れば、廊下をこちらに向かってくる山崎の姿。拙い。このまま山崎が歩いてくれば、部屋を覗かれる恐れがある。かといって土方が急に部屋に引っ込んでしまうのは明らかに不審だ。まさか大した用もないのに山崎が土方の部屋に勝手に入ってくるとは思えないが、仕事の話で部屋の前に立たれたら入室を拒む理由がない。
 どうする?
 考えを巡らせている間にも山崎はどんどんと近づいてくる。良い考えが浮かばないまま土方は廊下を蹴った。
「あ、あれ? 副長?」
 山崎はその場で足を止めた。なぜなら上司である土方がこれ以上ないくらい真剣な顔をして自分に向かってきたからだ。上司のそういう顔には嫌というほど見覚えがあった。仕事の合間を盗んでミントンに勤しんでいる時、それを見つけた上司が全速力でもって折檻しにくる際の表情そのものだったからだ。
 だが今の山崎には追われる理由に心当たりなどない。なのに追いかけられる時そのままの空気に飲まれ、背筋には鳥肌が立った。条件反射だ。いつもなら山崎の名を喚き散らして追いかけてくるのに、無言であるのが不気味さに拍車をかけている。
「ちょっ、何ですか副長ォ! ヒ! 助けてェ!」
 迫り来る恐怖に耐えかねて、とうとう山崎は逃げ出した。


 

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