の爪





 今日は野菜の特売日だから、と自宅から少々離れた所にあるスーパーへと向かった志村妙は、突如気まぐれのように発生した入道雲と、それによる大雨により商店の軒先で足を止めざるを得なくなっていた。家を出る時は雨の気配などまるでなかったため、傘の用意があるはずもない。男なら、少々の雨ならば濡れて行くも風流と思ったかもしれないが、着物を濡らすなど若い娘である妙には御免だった。
 しかしいつまでも商店の軒先にいるわけにもいくまい。下手をすれば特売の野菜が買えなくなってしまうかもしれない。
 そうしてやきもきしている妙の目の前を、傘を持った人々が通り抜ける。といっても急な雨に間に合わせたビニール傘だったが。安物とはいえ可愛げもなにもないそれを購入するのは抵抗があった。第一、傘を買ってしまったらわざわざ特売の野菜を求めて遠出した意味がなくなる。と、その時。目の前を一人の男が通り過ぎた。見知った男だ。こちらにはまだ気づいていない。妙は可愛らしい唇の両端をひっそりと持ち上げた。


「本当に助かりました」
 雨の降る中、濡れる事なく目当てのスーパーに辿り着いた妙は、傍らで傘を手にする男に甘い微笑みを投げかける。若い娘に礼を言われ愛想まで振りまかれているというのに、男の頬は緩むどころかぴくりとも動かなかった。同じ黒の制服を身につけていてもこうも違うものかと感心し、また同時に腹立たしい心地がした。例えばこれが彼の上司ならば、それはもう気持ち悪い程にデレデレした笑顔を向けてくるだろうからだ。しかし目の前の男には愛想の欠片もない。鬼の副長と呼ばれるのも納得である。
「じゃあ、俺はこれで」
 一刻も早く立ち去りたいといった様子の男の――土方の袖を妙は素早く捕らえた。何の真似だ、とでも言いたげな目が振り返る。眦がつり上がり瞳孔も開きかけている目にはそれなりの迫力があった。だが妙は臆する事なくにっこりと微笑むとこう言う。
「そう言わずに、もう少しつき合って下さらない?」
 妙の言葉に土方の眉間に深い皺が刻まれる。
「ハ? 何で俺が」
「卵が、お一人様一パックなんです。土方さんがいれば二パック買えるわ」
「それは俺には関係ね――」
「それにまだ雨が降っているかもしれないし」
「じゃあこの傘をやるから――」
「いやだわ。そうして貴方が風邪を引いたら私の責任にするのね?」
「いや、そんな事は――」
「だから、土方さんがいれば卵が二パック買えるんです」
 あくまでも物腰は柔らかに優雅に。妙は微笑みを崩さない。そして土方は、彼にしては珍しく切れの悪い様子だった。実は雨宿り中の妙に捕まったときも、持っていた傘を押し付け逃げようとしたのに、頑として聞き入れなかったこの娘に強引にスーパーまで送らされたのだ。
 土方は眉間に皺を刻んだまま目の前に立つ女を見た。彼の友人にして上司の真選組局長、近藤勲の想い人であるスナックのホステス。この娘の店に近藤が出かけ、無傷で帰らなかった試しがない。一体こんな暴力女のどこがいいのか理解に苦しむ。土方から見れば、ただの青臭い小娘にしか見えないのだが。まあ、外見はそれなりに可愛いといえるか。
 ――なまじ可愛らしく笑っているのが不気味なところだが。
「……解った」
 苦々しい顔を隠しもしないで土方は承諾した。なんといっても日頃近藤のストーカー行為で迷惑をかけている身だ。ここで土方が言う事を聞いて、我らが局長の株が上がるなら安いものかもしれない。
 そう自分に言い聞かせるようにして土方は妙の買い物につき合う決心をつけた。
 決して、目の前の娘の笑顔が不気味だから、とうわけではないのだ。そう、決して。

 スーパーマーケットで清算のためレジスターの列に並ぶ真選組の制服を着た男の姿は、主婦の姿が目立つ店内では酷く浮いて見えたことだろうと思う。しかも女連れだ。
 自分が場違いな存在であることを土方は十分に理解していた。ただ立っているだけで好奇の目が向けられるのを感じる。早くこの時間が過ぎればいいと願っているのだが、雨にも関わらず特売日のスーパーは客が多く、自然とレジも混んでいた。
「ごめんなさいね」
「ああ?」
「お忙しいのにつき合わせてしまって」
 言葉だけはしおらしいが、その実ちっとも悪いと思っていない妙の様子に土方はますます苦虫を噛み潰したような顔になった。第一本当にそう思っているのなら、あれほどに土方を引き止めるわけがない。一体可愛らしい笑顔の下で何を考えているのやら。
「私たち、皆からどう思われているんでしょうね」
 わざとらしい妙の謎掛けに答える気にはなれなかった。男と女が共にレジに並んで清算待ちをしている。しかもカゴは一つ。その中にはお一人様一パック限りの卵。詮索好きの主婦には恰好の標的だろう。
 土方はとにかくこの時間が早く終わることを願った。


 買い物の清算が済むと、土方は深いため息をついた。
「本当にごめんなさいねー」
「いや」
 妙の態度にはやはり少しも悪びれた様子が一切ないが、これでようやく解放されると思えば安いものだ。
 お一人様一パックの卵は買えた。店の外を見れば、雨ももう止んでいるようだ。これ以上土方が妙につき合う理由はないはずである。早急にその場を去ろうとした土方だったが、不意に妙が「あ!」と声をあげた。
「土方さん、ちょっと」
 この期に及んでまだ何かあるのか。うんざりした心地で、それでも妙に従うしかない。意外に力強い娘はぐいぐいと土方をスーパーの一角へと引っ張る。
 訪れたのは色とりどりの化粧品が並んだコーナーだった。こんなところ、若い娘なら用があるかもしれないが、土方にはまるで無用だ。どういうつもりなのかと思っていたら、妙はかわいらしく首を傾げてこう言った。
「選んで下さい」
「は?」
 咄嗟に何を言われたのか理解できず聞き返す。
「選んで下さい。貴方が好きな色を」
 妙が示したのは多くの色が入ったボトルが並んだ陳列棚だった。ボトルの中身は女が爪に塗り飾るものだ。妙は、店で使うのだろうそれの色を選べと土方に言っているのだった。
 なぜ土方がそれを選ばなければならないのか甚だ疑問だが。
「何で俺が」
「土方さんが来られる時につけますから。うんとサービスしますよ」
 サービスと言ってもその代価はきっちりと取られるはずである。道場の再興を目指す妙が、無料で誰かに奉仕するなど考えられない。ましてや、ストーカー上司の部下相手にだ。
 けれども――脳裏に浮かぶのはそのストーカー上司の顔だった。悪い奴じゃないんだ。ただ、少し愛情表現が極端なだけで。

「これなんか、いいんじゃねェか」
 ぶっきらぼうに言った土方が手に取ったのは、淡い桜色のマニキュアだった。商売女がつけるような色味ではなかったかもしれないが。
 白くたおやかな手に桜色のボトルを押し付ける。手の中の物に妙は少し不可思議な顔をした。そして――。
 土方の目の前で、それを棚に戻した。
「止めておくわ」
「オイ」
 選べというから選んだのに、戻すとは一体どういう了見だ。自然と土方の声に険が含まれるのも仕方あるまい。けれど妙は涼しい顔をして「だって」と唇を開いた。
「今のは、あなたの趣味じゃないわ。私はこれにします」
 そう言って彼女が手に取ったのは、桜色とは対照的な、鮮やかに赤い色のボトルだった。


「今日は本当に助かりました」
 志村家の門扉の前で妙が微笑んで礼を言う。
 結局、荷物が重いだのなんだのという理由で最後まで妙につき合う羽目になってしまったのだ。
 何か緊急の仕事でも入れば逃げやすかったのだが、こんな時に限って江戸の街は平和で、攘夷浪士も大人しいときている。土方は心中で不甲斐ない浪士連中を呪った。
 しかしようやくこの娘から解放される。妙の微笑みに「ああ」と短く答えた。今度は言いつける用事もなくなったのだろう。妙はあっさりときびすを返し、門扉の中へと足を踏み入れる。その時だ。何かに足を取られたのか、妙の身体がバランスを崩した。咄嗟に土方は手を伸ばし、華奢な身体を抱きとめた。
「キャ!」
 可愛らしい悲鳴をあげるあたりはごく普通の娘とかわらない。だが、バランスを崩した際に振り上げた手が、土方の頬に当たる。
「大丈夫か」
「ええ、すみません土方さん」
 助かりました。あやうくたまごを駄目にしちゃうところだったわ、と妙はほっと息をつく。そして振り返った目がわずかに見開かれる。
「ああ、ごめんなさいね」
 妙の手が土方の頬に伸び、今しがたついたばかりの赤い線をなぞった。人の爪は意外に鋭利だ。
「別に、気にするな。アンタに怪我がなくてよかった」
 自分がついていながら妙に怪我をさせたとあっては近藤に申し訳ない。それに、頬の傷は痛みを感じない程度の些細なものだ。自分は女ではないし、気にする程の事でもなかった。
 そんな土方に、妙が微笑みかける。
「アラ、格好いいのね」
 見え透いた世辞に土方は答えなかった。






「アレっ? 副長、どうしたんですか?」
「ああ?」
 屯所に帰ると、さっそく山崎が土方の頬の傷を見とがめて声をかけてきた。鬱陶しく思いながら煙草に火をつける。
「あー、その傷は女性ですねー。副長モテるからなー」
 空気を読めないのか、あえて読まないのか。どちらか解らないが山崎はのんきな台詞を吐く。
「誰にやられたんですか。それ。このこのぉ〜」
 美人ですか? どんな人ですか。好奇心旺盛に話しかけて来る山崎の腹に一発拳を入れて黙らせる。

「魔女だよ」
「うぐっ、げほっ………えっ?」
「この傷は、魔女にやられたんだ」

 土方の脳裏で、赤い爪の女が笑っていた。



090913
別に土妙でもなければ妙土でもなく…

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