のようにきまぐれ








 惜し気もなく晒された白い喉に、山崎はただ呆然と見入っていた。つう、と一粒の水滴が無防備にさらけ出された喉を伝う。言うまでもない事だが、喉というのは人間の急所になる。その弱点をさらけ出すという事は、彼がそれだけ山崎の事を信頼しているという事にならないだろうか。いや、まさか山崎が自分に刃を向ける程の度胸があるとは思わず、侮っているだけかもしれない。真実、山崎は目の前にいる男に刃を向けるなど考えるだけで恐ろしいと思っているからだ。
 豪快にグラスを開けた男は真選組副長土方十四郎である。
 ただ今日はいつもの黒の洋装ではなく黒の単衣だ。非番なのである。山崎もまた、制服ではなかった。こちらも同じく非番なのである。
 非番だからといって一緒に飲みに行く程二人は仲がいいわけではない。今回のこれはなかば事故のようなものだと山崎は思っていた。
 ――時は少し前に遡る。


 真選組には武装警察という名目上基本的に定休日など存在しない。そのため休みはシフト制になっていて、休日には銘々好きなように過ごす。遊びに行く者、飲みに行く者、ごく稀にめかし込んで出かける者。なかには隊士同士つるんで出かける者もいる。
 だがその中には暇を持て余している者もいた。その筆頭が誰だろう副長の土方だ。しかしそれでもいつもはふらりとどこかへ出かけるか、屯所でのんびりしているか、はたまた仕事を片付けているかなのにこの日は珍しく他の隊士と飲みに行く気になったらしい。とはいえ鬼の副長と杯を酌み交わす程肝の座った者がそうそういるはずもなく、誰もかれもがとっとと理由をつけて立ち去り、土方はあっという間にひとりぼっちになってしまった。
 そんな時だ。
『山崎ィ!』
 土方の怒声が山崎を呼んだ。ただそれだけ。ただそれだけで山崎の身柄は山崎自身もどうする事もできない状況に陥ったのだった。一緒に出かける予定だった隊士の一人が拝むような仕種で山崎に別れを告げる。
 その顔には山崎への慰労よりもむしろ自分が副長の生贄を免れた事に対する喜びがありありと浮かんでいて、山崎は少し荒んだ心持ちになった。
 こうして土方は山崎という供を連れ、居酒屋へと訪れたのである。


「親父、もう一杯!」
 はいよ、とカウンタの中から威勢のいい返事が飛ぶ。土方は機嫌がいいらしく、気持ち良いくらいに杯を開けている。
 かわいそうな山崎。非番の日まで上司と一緒だなんて。一時も心が休まらないに違いない。皆がそう思っているのは必至だった。
 確かに土方と――鬼の副長などと呼ばれる男と二人きりでいるなど心が休まらないのは事実である。しかしかといって山崎は土方が疎ましいと思っているわけではなかった。むしろその逆で山崎はこの鬼と呼ばれる男に惹き付けられている自分をまざまざと感じるのだ。副長直属の監察という立場から見れば土方は局長の近藤よりもずっと近しい存在である。だからだろうか。山崎にとって土方は、生き様や、心の有り様や、凛とした姿など、すべてにおいて特別な存在であった。
 しかしながら――。
(まずいな……)
 この状況にはさすがに山崎も焦りのようなものを感じていた。例えば、狭い店内のカウンターの下。時折自分の足に触れる土方の足の感触がよくない。ズボンで足を包む隊服の時と違い、着流しだと足を包み込むものがない。少し足を開けばすぐに素肌が覗くわけで、山崎は己の足に土方のそれが触れる度、黒い着物の隙間から覗く白い足を想像し心臓を跳ね上がらせていた。
 そう、山崎が土方に対して抱いている感情は憧憬や尊敬という言葉だけでは言い表せないものであった。それはむくむくと心の中でふくれあがり、後ろめたい気持ちを抱かせるのだ。これは山崎が勝手に抱いた妄想で、土方が山崎の事をそういう目で見てなどいない事は解っている。解っていて尚、疾しい気持ちを抱く事を止められない自分がいる。
 マヨネーズがついた指を舐めとる赤い舌が扇情的であるとか、(確かつまみはイカの一夜干しだったと記憶している)赤く色づいた目尻や頬に常にない色気を見てしまったり、今まさに上機嫌で酒を呷る土方の、反らされた白い喉に接吻したいなどという欲望が沸き上がるのを感じ、山崎はぶんぶんと首を振った。
「副長、そのへんにしておかないと。今日はピッチが早すぎやしませんか」
 機嫌良く飲んでいるのにこんな事を言うのは無粋だなと思いながら、山崎は土方にストップをかけた。それにしてもこの男がこんな飲み方をするのは珍しいように思う。普段は屯所で宴会を開いても、ちびりちびりと嘗めるようにしか酒を飲まないのに。――それは局長である近藤が羽目を外しすぎて潰れてしまっても、有事の際に対処できるよう酒を控えているのだという事は解っているが。
 しかし土方はさして酒に強いほうではなかったと記憶している。いくら機嫌が良かろうとあまりピッチを上げるとすぐに悪酔いしてしまうのではないだろうか。
 山崎が意見すると土方は酒に酔った赤い目で睨みつけてきた。怒らせたかもしれない。拳が飛んでくるのを予想し身構える。だが、予想に反し土方は「ふう」と一つため息をついただけだった。
「なァ山崎」
「あ、はい?」
「お前、童貞か」
「ハイイイッ!?」
 突然脈略もなくそんな事を聞かれて山崎は慌てふためいた。思わず大声で返事したもののそれは問いかけに対する答えではなかったのだが、土方は納得したように呟く。
「やっぱ童貞か」
「ち、違いますよッ!」
 そこは自分の名誉のためにも弁解せねばなるまい。山崎は慌てながらも土方の勘違いを訂正する。そりゃぁ色男の土方とは比べるまでもないだろうが、山崎だって地味なりにやるときはやるのだ。すると土方は「ふぅん」と気のない返事をしてまた酒を口にする。だが今度は一気に空けるのではなく、少し口に含んだ程度で飲み下した。
 その「ふぅん」に一体何の意味があるのだろうか。気になって仕方ないが、土方はその答えを明かす気はないようだった。元よりただの戯れ言で、答えなどなかったのかもしれない。


* * *



 副長、大丈夫かな?
 勘定を済ませ、表に出た山崎は土方の背中を見ながらそんな心配を抱いていた。結局飲み食いしたのはほとんど土方で、山崎は緊張のあまり酒も肴もあまり喉を通らずじまいだったのだ。その酔っぱらいはというとさすがに座り込んだりへたりこんだりするわけではないが、あちらへ行ったり、こちらへ行ったりとどうも足取りが覚束ない。
 肩を貸した方がいいのか逡巡していたら歩き始めた土方の身体が大きく傾いだ。あ、と声が漏れる。だが大きくバランスを崩したものの、寸でのところで持ち直す。さすがの運動神経だ。感心しながらも転倒しなくてよかったと安堵していたところに山崎ィ!と怒声が飛んできた。
「お前、肩貸せ」
 駆けつけた山崎に土方は横柄な態度で言い放った。大抵の事ならすぐに承服する山崎だが、この時は土方の言葉に戸惑う。
「え……、あの。歩くのが無理そうなら車呼びましょうか」
 それは酔った上司に対する精一杯の提案だったのだが。当の本人は気に食わなかったらしい。
「テメー俺の言うことがきけねえのか。山崎のくせに」
 と、逆に因縁をつけられる始末だ。
「あ、そんなぁ……滅相もない」
 山崎は愛想笑いでごまかす。顔がひきつってしまったが相手は酔っ払いなので深く追求されずにすんだ。
 ここは逆らわず大人しく従うより他はない。山崎は土方が望むよう、彼に肩を貸した。
 言う通りにしたからか土方の機嫌は幾分持ち直す。
 のしかかる重み。暖かな体温。酒の匂い。――土方の匂い。
「副長……。重いです」
 引き締まった体躯はそれなりに重い。もたれ掛かる身体を支える山崎が愚痴をこぼすと、土方は面白がってますます体重を乗せてきた。おかげで大変歩きにくいことこの上ない。
 だが土方の身体に密着しているという事実が胸を熱くさせた。この下心を知られてしまったらこの関係は崩れさってしまう。だから山崎は自分の胸の鼓動がどうか土方に伝わらないよう祈った。
 そんな状態で少し歩いた頃だろうか。静かだった土方の足が急に鈍くなった。
「どうしましたか副長?」
「……気持ち悪ィ」
 土方は己を支える山崎の身体から身を離し低く呻いたかと思うと、その場に倒れ込むようにしゃがみ込んだ。
「副長っ」
 ほら調子に乗ってガンガン飲むからァ!
 しかしその言葉は、保身のため口には出さないでおく。
「副長、大丈夫ですか? 立てますか?」
 動く事が可能ならば、往来ではなくもう少し落ち着ける所へ移動しよう。せめて道路の端くらいには。道の真ん中で立ち止まっていては周囲の人間に迷惑であろう。
 土方もそう思ったのか、ふらつきながらも立ち上がった。
「……大丈夫だ。あっちで少し休憩するぞ」
「ハイヨ!」
 土方が山崎の肩を抱いて歩き始める。休む場所の当てがあるのだろう。山崎は土方が足を進める方向へと彼を支える。と、いくらも歩かぬうちに土方は怠そうに片腕を上げ、ある建物を指差した。
「そこだ」
「ハイヨ! ――って。え? エエエエ!?」
 指示を受けいつものように返事を返したものの、示された場所が何であるかを認識し、ひどく狼狽する。
「ふ、ふふふ副長ここは……!」
 どもってしまうのは、よりにもよってその場所を休憩に使おうという土方の神経を疑ったからである。山崎が動揺するのも無理はない。なぜならそこは――。
「ら、らぶほてるっすよ、ここ……」
 ピンク色に塗られ、ライトアップまで施された外壁。夜闇の中に燦然と輝く「ご休憩」「ご宿泊」の料金が示された看板。よくよく辺りを見回せばいかにもいかがわしい通り。そこに建つその建物は通称らぶほてるといって男女が情交を交わすスポットの一つだ。その門を今にも土方がくぐろうとしているので慌てて止める。
「副長っ、ここは拙いですって!」
「あん? 休憩なんだからいいだろうが」
「休憩は休憩でもそういう意味じゃなく……!」
 身体が辛いからか山崎が逆らうのが気に入らないのか、土方は不機嫌な顔で睨みつけてくる。至近距離で見る土方の顔は凄い迫力だ。山崎はごくりと唾を飲み込んだ。
 確かに、休む事はできるだろう。寝台があり、洗面台があり、厠もある。風呂も完備されている。たとえば吐き気を催したとしても、道端より遥かに対処はし易い。
 けれど、山崎はこの場へ土方と足を踏み入れ、まともでいられる自信がないのである。
 これが監察の仕事でホテルの一室に潜伏するというならいい。それならばいくらでも冷静でいられる。だが今はプライベートだ。そして一緒にいるのは土方だ。山崎の想い人だ。疾しい気持ちを抱かないわけがない。
 酔っているためだろう。土方はいつもの冷静さを失っているように思えた。でなければ男同士でこんなところに入るなどと言い出すはずがない。
「ンだよ、休憩してちょっとすっきりすりゃいいだろうが。テメーだって」
「お、俺ェ!?」
 すっきりって何!? そういう事? いやいやいやまさか!
 その瞬間脳裏を過ったのは、寝台に一糸まとわぬ姿で横たわる土方と、溜まった欲望を吐き出し、すっきりとしている己の姿。
「だ、駄目ぇえええ!」
 今しがた浮かんだ不埒な妄想を必死で追い出す。違うんだ。副長はそんな意味で言ったんじゃないんだ! 
 そう自分に言い聞かせる。だが懸命な努力をあざ笑うかのように土方の攻撃は続く。
「いいから俺の言う事聞けや山崎。そしたらテメーにもイイ思いさせてやっからよォ」
 いうが早いが土方は山崎の首根っこへと腕を回した。ヘッドロックをかけた状態で、ホテルへ入ろうとする。
「ちょっ、駄目! 駄目ですって副長! 帰りましょう! 屯所へ帰りましょう! 車ならいくらでも俺が呼びますから! なんならおぶって走りもしますから! 後生だから! 後生だから副長! おうちかえろぉおおおお!」
 ずるずると引きずられながらも足を踏ん張り、必死に抵抗する。ここで流されてしまったら自分は確実に土方の信頼を裏切る事になるという自覚があるからだ。そうなったらおしまいだ。二度と土方の腹心ではいられなくなってしまう。二度と傍に置いて貰えなくなる。それは山崎にとって死の宣告に等しい恐怖だった。
 山崎が己と戦うのに必死だったその時。
「……チッ」
 不機嫌な舌打ちとともに山崎を引きずっていた土方の動きが止まった。
「テメー、やっぱ童貞だろ」
「ふく、ちょう?」
 一体何を言われたのか瞬時に理解できず、山崎は目を瞬かせた。土方はフンと鼻を鳴らすと、山崎を拘束していた腕を解く。解放された山崎は首をさすりながら土方を見上げた。
 そこには先ほどまでの醜態が嘘のように、背筋の伸びた土方の姿があった。蔑むような目で自分を見下ろしている。その顔はどう見ても今まで駄々っ子のようだった酔っぱらいの顔ではなかった。多少頬や目尻が赤いものの、瞳は驚くほど冷静だ。
「……え? あれ?」
 まだ事態がよく飲み込めていない山崎に、土方は言った。
「大人しく俺に乗っときゃ、イイ思いをさせてやったのによ」
 その言葉には存分にセクシャルな響きが込められているのが解った。と同時に不甲斐ない己を責める響きも。
 その証拠に。

「この童貞野郎」



 恐ろしく冷たい声音で山崎を罵倒した土方は、フンと鼻を鳴らし身を翻したのだ。
 一人ラブホテルの門前で置いてきぼりをくった山崎は、黒い着流しの背中が去っていくのを呆然と見守る事しかできなかった。




「え? 何。何、いまの。何で俺罵倒されたの?」
 あまりにも現実離れした状況に頭がついていかない。可哀想な山崎はいつまでもラブホテルの前に立ち尽くすのみだった。



080412
キモくないザキで山土。
山土ですよ!

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