ンダ世界 ─歌舞伎町ホスト物語─







 この世界は狂っているのだ――と思う。


 クリスマスイブという一大行事の今夜は常に無い忙しさで、お祭り気分がホストの間にも、客の間にもじんわりと浸食しているようだった。その結果各テーブルで高級シャンパンが開けられ、客とホストは大いに盛り上がっていたから、一日を終えた店の売り上げは目を見張る物だったに違いない。
 そんな狂った馬鹿騒ぎが終わる頃、体力の限界を迎えていた土方は休息を訴える体を引きずっていた。一刻も早くベッドに横になりたい。そう思いながら店を出てタクシーへと乗り込む。目的地である自宅へ着くまでに一眠りしようと目を瞑ったその時だ。
「俺も乗せてって」
 と耳慣れた声が割り込んで来た。異を唱える隙もなく土方の隣に腰を下ろしたのは同僚の金髪ホストだ。店に金髪は一人しか――ナンバー1のあの男しかいない。そして、名前を坂田金時というこの男は土方が住むマンションの同居人でもあった。
 同居は本意であったわけではない。弱みにつけこまれたようなものだ。
「車出してクダサーイ」
 金髪に言われたタクシーの運転手は素直に車を発進させる。行き先が同じならば彼に断る理由は無いからだ。滑らかに発車した車のシートに背を預けた土方は、もう文句を言う気力も無くしていた。どうせ逆らったところで体力の無駄だ。だったら黙っている方がいい。
 いつも土方を玩具のように扱う男は何のからかいも言って来なかった。今夜はこの男も疲れているのだろう。一見飄々と物事をこなす男だが、ナンバー1というのはそれほど甘っちょろいものではないとナンバー2である自分は知っているつもりだ。
 土方は黙って目を閉じる。睡魔はすぐに訪れた。


 目が覚めたのは頬に冷たい空気を感じた時だった。
 金髪の男が運転手と金銭の受け渡しをしているのがぼんやりと目に映る。目的地に到着したのだと頭の片隅で思い、土方はのそのそとシートから降りた。金時にタクシー代を払わせてしまった――借りを作るのは御免だと思いながら、金額の計算ができないのは偏に眠かったからだ。何もかも後回しでいい、と思った土方はそこでようやく異変に気づいた。
「……あァ?」
 てっきり家に着いたのだと思ったのに、見慣れたマンションのエントランスが何処にもない。思わず辺りを見回してもそこは見知った空間ではなかった。ただ目の前にあるのはどこにでも見かけるコンビニエンスストアだ。二十四時間営業というのは、ホストのように不規則な時間に生活する輩にとっても便利なものだった。土方もちょくちょく利用する事があったが、一体なぜここでタクシーを降りなければならなかったのか、呆然とした。
「テメー、何しやがる」
 自宅へと帰る足を奪われ、冷えた空気のおかげでだんだんと頭がクリアーになってきた土方は低い声で唸った。金髪は動じもしないのが余計に腹立たしい。涼しい顔をした男は冷気に肩をすくめつつ唇を開いた。
「ケーキ」
「はァ?」
「ケーキが食べたくなって」
「あァァ!?」
 思いも寄らぬ言葉に土方はつい大声を上げてしまった。

 ケーキ? ケーキだと?

 金時が大の甘党である事は勿論知っている。それは土方だけではなく、客の女達も、店のオーナーも知る所だ。そのため今晩はこの男の為に馬鹿らしい程高いケーキが山のように用意されたのだった。中でも有名パティシエが作ったとされる、クリスマス限定一台のプレミアつきクリスマスケーキは群を抜いて目立っていた。
 たかが洋菓子のくせに、信じられないくらい高い値段がつけられたそれらをなんだかんだといって口に運んでいたのは一体誰だったか、覚えていない土方ではない。金時は実によく揃えられた甘いケーキの山を片っ端から切り崩していった。土方などは見ているだけで胸焼けを起こすかと思ったくらいだ。
 それだけの量のケーキを食べていながらまだ足りないと? まだ甘味を欲するというのかこの男は。

 ――馬鹿だ。
 ここにも狂った世界に当てられた馬鹿がいる。

 しかし食べ足りないといっても、早朝ともいっていい時間帯の今ではどんな高級店だって営業をしているわけはない。開いているのは目の前のコンビニエンスストアくらいで、そんな処のケーキで舌の肥えたこの男は満足しないだろうに。
 シャンパンを飲み過ぎて酔ったとでもいうのか?
 だが金時は土方の予想に反し、しっかりとした足取りでもってコンビニエンスストアの自動ドアをくぐった。
「何してんだ、早く」
 その場に立ち尽くした土方を金時が振り返って呼ぶ。その自然な動作にハッとして、同時にくやしい思いが体内に生まれる。このまま金時を置いて帰ってもよかったが、男がどうするのか見届けたい気になり土方も自動ドアをくぐる。ほんの少しだが寒風に吹かれた身に、暖かな店内の空気は安堵を誘った。
 金時はデザートコーナーへ一直線に進み、土方はその背を追った。





 安物のプラスチックケースに入れられたケーキは、一度目にした高級品と比べればやはり見劣りするのは避けようがない。当然売り上げナンバー1ホストがこれに甘んずるわけがないだろうと思う。
 むしろ、これは自分に似合いだ。
 独創的な飾りなどない――シンプルで廉価なケーキは、普段は甘いものなど食べない土方の目にもよく馴染んだ。懐かしさを覚えるといってもいい。
 そんな気持ちで並んだケーキを見つめていたら、それを伸びてきた黒いスーツの袖が掴んだ。
 見れば、金時がショートケーキのパックを手にしている。
「オイ」
 そんな安い品物に、お前は縁などないはずだろう。――欲しいと願いさえすればいくらでも有名店の菓子が手に入る男に、こんなコンビニエンスストアの商品など不要なはずだ。
 思わず静止の声をあげた土方だが、金時はそれを奇麗に無視し、ショートケーキをレジへと持って行く。
「あー、やっぱ予約要るよなー。考えてなかったんだよなー」
 金髪の男は歩きながらそんな事を呟いた。土方はその言葉の意味を疑問に思ったが、それはすぐに氷解した。というのもクリスマスケーキの販売促進用ポスターが目に入ったからだ。そこには「予約受付は終了しました」と張り紙が貼ってある。
 しかし金時は一体何を考えているのか。こんな所で自ら予約などせずとも、彼の気を引きたい者がいくらでもそんなものは用意してくれるだろうに。だが金時は手にしたショートケーキを購入し、「行くぞ」と再び土方を呼ぶ。
 そうして彼は店を出るとタクシーを拾い、ようやく土方達は自分たちの住処へと帰ったのだった。




 熱いコーヒーと、安物のショートケーキ。
 その組み合わせは早朝に近い時間帯の深夜には少しそぐわないものに思える。
 ずっと黙り込んだままの土方に対し、向かいの席に腰掛けた男は「いただきます」といってケーキに手をつけはじめた。甘党の男は口の周りについたクリームを舐めとりつつ「美味い」と言った。
 その言葉に土方の魔法が解ける。
「……何が美味いんだよ」
 土方の言葉に金時は訝し気な視線でもって答えた。
「何って、ケーキが」
 嘘だ。
 瞬間的に、土方は金時の言葉を否定する。脳裏に浮かぶのはクリスマスパーティー会場と化した店内で、馬鹿馬鹿しい程高価なケーキを食べていた金時の姿だ。あれほど豪華な菓子の味を知る男が、こんな安物を美味いと思うはずがない。
「ふかしてんじゃねーよ」
 なぜだかとても気分が悪く、ふつふつと胃の底で怒りが湧いてきた。だがなぜ腹が立つのか自分でも解らない。
「ふかしてねーよ」
 信じられるものか。
 金時の答えにさらに土方は苛立つ。第一、この男にこんなケーキを食べてもらいたくないのだ。贅沢に塗れて生きる男には。
 だが――。
「高級品だって悪かねェけどな。こーいうケーキだって立派にケーキだろーが」
 金髪の男は「ケーキをバカにするな」と土方をたしなめた。金時の台詞に矛盾点が無いので土方は思わず怯む。
 とその時。聞き取れるか聞き取れないかくらいの声量で、金髪の男は呟いた。


 「懐かしい味がすんだよ」

 それはごくわずかな声量ながら、他のどんな言葉よりも鋭く胸に突き刺さった。瞠目する土方をよそに金時は残ったケーキを素早く口に収めるとそれを極甘のコーヒーで流し込む。
「ごっそさん」
 土方が奢ったわけでもないのにそんな事を言って席を立つ。金時がいなくなっても土方はすぐにはその場から動けなかった。



 華美な装飾などない、特別な材料で作られたわけでもなければ味もそれほど良い訳ではない。
 目の前の皿に乗っているのは、どこにでもある、敷居の低いただのショートケーキだ。



 どれくらいの間その場にいたのだろうか。
 ようやく土方はケーキに添えられたフォークへと手を伸ばし、一口分を切り取って口へと運んだ。甘い生クリームに、少しパサついて固い生地。赤いイチゴが彩りを添え、スポンジの間には缶詰の物だろう。黄色い桃が挟んである。



 それ、はやはり安物の味がして――ひどく懐かしかった。









 狂った世界から帰りたい――。






051229
クリスマスに間に合わなかった…

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