左手の



【弐】


 真選組の制服である黒い洋装の背中が遠ざかって行く。その背中が満足そうに見えるのは新八の気のせいではないだろう。なぜなら彼が用意した餌はそれなりの効果を見せたからだ。


 土方の投げた餌は、庶民とは無縁の『高級料亭ご招待』というものだった。その餌に、まさか引っかかるまいと思われた銀時がものの見事に食いついたのだ。確かにその料亭は江戸でも有数の老舗の一つであり、勿論一介の市民が、とりわけろくに仕事もない万事屋のような者が気安く立ち入れるような場所ではない。そして当然、そういった店は一見客を取らない事でも知られている。
 そんなお偉いさんが接待で使うような所に縁などあるはずもない男が興味を惹かれるとは思ってもいなかったわけだが。店の名前を確認した後、予約を入れているという旨を聞いた銀時は土方の申し出をあっさりと承諾したのだった。
 一体この人は何を考えているのだろうと、新八は雇い主の横顔を見上げる。いつも死んだ魚のような目をした男は、思いのほかまっすぐな視線を先程の警察官の背中に注いでいて、そのいつになく真面目な顔に新八の胸は締め付けられるような心地がした。
 大人同士の話に口は挟まなかったものの、土方が何を言っているのかはなんとなく理解したつもりだ。


 あの、祭りの夜。


 平賀がカラクリ部隊と応戦している真選組へ砲の照準を合わせた時、銀時はいつも通り飄々とした様子で現れた。たった一人で、しかも武器といえば木刀ただ一つを手にカラクリ人形――三郎――に対峙した無茶な男は、心を持たぬ機械であるはずの三郎が、自ら身を引く事で怪我ひとつ追わずにすんだ。――はずだった。
 だが、すべてが終わった後に新八は見つけてしまった。銀時は左手を負傷していたのである。手当の時に見たそれは鋭利な刃物で傷付けられた、まぎれもない刀傷だった。銀時は己の腹の内を簡単に語る男ではないから詳しい事情は解らぬままだったが、土方の台詞から推測するに、その傷は銀時の昔の仲間がつけたものなのだろう。

「銀さん……」
 過去を語りたがらない男について新八が知っているのは、彼が昔攘夷戦争に参加していたという事。そしてその時の仲間が現在お尋ね者になっている桂小太郎である事。その二つくらいだった。しかし桂とは新八も何度か面識があるが、彼が刀傷を負わせた犯人だというのは考えにくい。おそらく桂ではないだろう。ということは別の仲間だということになる。
 桂を含め、主立った攘夷志士はそのほとんどが現在は反逆者として幕府によって粛正、または追われる身である。真選組は幕府側の人間だ。ならば土方の狙いはその反逆者達なのだろう。それくらい新八にも予想はついた。
 まさか銀時が昔の仲間を簡単に警察に売り渡すとは思えないが、土方の誘いにわざわざ乗った理由が解せない。誘いに乗ったふりではなく、本当に呼び出しに応じるのだろうか。胸の内を明かさない男に、新八は「本当に行くんですか」と問うた。
「新八よォ」
 静かな口調に新八の胸が動悸を打つ。だが。
「新しいぱんつあったっけ?」
 次いで発せられた銀時の台詞に新八は思い切りずっこけた。
「ハァアアア!? アンタ何言ってるの!?」
 すかさず抗議すれば、銀髪の男は顎に手を当てながら真面目くさった顔を向けてきてこう言う。
「いや、新しいぱんつだよ。どうだったかな〜」
 何だ? この人は何を言っているんだ? 理解不能だ。
 ぶつぶつとぱんつぱんつと繰り返す銀時を見る新八の顔はこれ以上ないくらいに引きつっていた。「お前のパンツ事情なんて知らねーよ!」とでも突っ込んでやれば良いのだろうか。しかし新八はその衝動を必死に押さえ込んだ。代わりに
「何言ってるんですか。大体、さっきの話とパンツに何の関係があるんですか」
 と冷ややかな言葉と蔑むような視線で応戦してやる。すると銀時は少し驚いた顔をして、それからまた真面目くさった顔をしてこんな事を言ったのだ。
「バカ、お前。こういう接待には大人のアレコレがつきもんなんだよ」

 大人のアレコレ?


 新八の脳裏に浮かんだのはテレビドラマでしか見た事の無い、高級官僚の接待のシーンだった。そこでは当たり前のように呼ばれる美しい芸者が、踊ったり歌ったり、いかにも悪役といった様相の男に酌をする。その後わざとらしく映るのは隣の部屋に敷かれた一組の布団と、二つの枕だ。ドラマではここで美しい芸者が実は正義の味方側の人間で、助平心をむき出しにした悪代官をとっちめたりするのだが――。
 この場合、銀時が何を期待して先程の発言をしたのか、考えるまでもない事だった。
 ではあの真面目な横顔は一体なんだったのか。そんなくだらない事をこの男は一生懸命考えていたのか? では、土方の申し出を速攻で受けたのもすべてはそれのためか。
 ぷつりと、新八の中で何かが切れた。


「見損ないましたよ銀さん。高級料亭だろーがどこだろーが勝手にして下さい」
 おかげで新八も遠慮なく銀時を見捨てる事ができたのである。




続く。


051110
まだ続きます

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