そのひとことがえない







 その日の坂田銀時は頗る上機嫌だった。
 何しろ暇を持て余してたまたま入ったパチンコ店の、たまたま目についた台に腰を落ち着けたところ、面白いくらいに銀の玉が溢れ出て来たのだ。おかげさまで懐は暖かいし、非常食のチョコレートも当分事欠かない。袋いっぱいのチョコレートを抱えながら江戸の街を闊歩する。
 今日はなんていい日なのだろう。空は晴れ渡り、吹く風は爽やかだ。世界のすべてが銀時に微笑みかけているようである。とてもいい気分だ。
 あまりにもいい気分だから、誰かにこの気持ちをお裾分けしてやろうと、心の広い事を考える。そうだ、これから家に帰るまでの間に、誰か知り合いに出会ったら、そいつを誘って飲みに行こう。金の心配ならいらない。いつもと違い財布の中身は十分に潤っているのだから、それくらいは銀時が持とう。そうだ、そうしよう。と、意気揚々と曲がり角を曲がった瞬間の事である。
 路の向こうに見えた人影に、銀時の顔が強ばった。彼はそこに、最も見てはいけない人物を見てしまったのである。それこそ、今まで浮かれていた気持ちが一遍に冷めてしまうくらいに強烈な。
 その人影は、巨大だった。
 少なくとも地球人には珍しいサイズである事は違いなかった。そして彼は、緑色をしていた。
 そのうえ頭に大きな二本の角を生やしている。なぜか頭頂にはピンク色の可憐な花が咲いていた。それは彼が花を愛する花屋だから、というのが理由のようだが、銀時にはどうしてもそれがチョウチンアンコウの提灯のように、何らかの罠に感じられて仕方なかった。
 彼の名は屁怒絽といい、万事屋の向かいに開店した花屋の主人であり、植物はもちろん小さな蟻まで愛する心優しい天人だ。しかし、小さな蟻を助けるために別の命を屠ってしまいそうな、そんな危うさも度々感じていた。加えてその鬼のような容姿は何度見てもぎょっとさせられる。夜中にうっかり目にしてしまったら、泣いてしまいそうだ。いや、失神するかもしれない。
 そんな彼と、飲みに行くだと?
『いやあ、坂田さんが僕を誘ってくれるなんて、光栄です』
 くわ! と彼に取っては笑顔だという凄み顔を近づけられる。銀時はついうっかりとその様を想像した。想像、してしまった。実にリアルに。
 いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや!!
 全身の、毛穴という毛穴が開き、冷や汗が吹き出て来た心地がした。
 なし! 今のなし! ていうか俺は見てない。見てないよー。屁怒絽さんなんて見てない! あの人は気のせい! 俺の知り合いはまだ会ってない!
 そう自分を誤摩化そうとした時だ。何かを察したのか、緑色の大きな背中が振り返った。屁怒絽の、まるで獲物を見つけたかのような目と目が合う。――それはあくまでも、銀時の主観であるのだが。
『ああ、坂田さんじゃありませんか』
 見た目に反して礼儀正しい彼が、そう挨拶しようとした瞬間。
 屁怒絽がいる場所よりもう一つ手前の交差路から、黒い影が突然現れ、銀時の前を横切ろうとした。
 それは心地いい休日には似つかわしくない黒の洋装で、しかも何が気に入らないのか眉間に皺寄せひどく不機嫌そうな顔をした男だった。
 だが銀時にはその男がまるで救いの神のように思えたのである。
「土方君、きみに決めた!」
 と、まるでアニメの主人公のような台詞を高らかに宣言する。言われた方はたった今銀時に気づいたという顔で、切れ長の目を見開き声の主を見やった。
「てめェ、何」
「ささ、行くぞー土方君。今日は銀さんが奢っちゃう。なんでも奢っちゃう!」
「は? 何言ってんだ腐れニート」
「いいから! 腐れニートでもなんでもいいから! 今日は特別だから! 銀さんが何でも奢ってやるから! だから大人しく奢られとけこのヤロー。てか、奢らせてください。お願いだから俺を殺人鬼とツーショットにしないでくれェエエ!」
 相手に口を挟む隙を与えず一気に畳み掛けるのは銀時の得意技だ。普段ならそれは悪口に適用されるのだが、この時はまるで悪口とは無関係の事ばかり並べ立てるものだから、特に言い返す言葉を持たなかった土方は、わけも解らず誘導されるままその場を離れたのだった。


+  +  +



「で、てめェが奢るとか珍しい。てか、明日は雨でも降るんじゃねーか?」
「うるせーな。俺だってお前に奢るつもりはなかったんですぅ!」
 安酒を手酌でついで、ちびちびと舐めるように味わう。そんな飲み方をしなくても今日は予算に余裕があるのだが、最近は銀時の財布も不景気で、こういう飲み方ばかりしていたから癖になっているのだ。
 昼間の一件から、数時間の刻が流れていた。というのも、土方は休日返上で仕事中で、昼間から酒を飲む訳にはいかなかったからだ。銀時も一度誘った手前、反古にするのは粋ではないため、大人しくそれに従った。むしろここで土方を手放してしまったら、屁怒絽に再会しそうな気がしたからというのも理由の一つである。
 土方の仕事の段取りがついた頃には、すっかり日も落ちてしまっていた。おかげで飲み屋に行くのも気兼ねも引け目も感じなくていい。
 珍しい事に、いつもは顔を合わせれば喧嘩ばかりしている二人なのだが、今夜はそれがなかった。挨拶代わりの軽口は叩き合うが、それまでである。銀時の気が大きくなっているからだろうか。それとも、今日がやはりいい日だからだろうか。土方も心なしか機嫌がいいように見えるのは、日頃奢るなどと絶対に言わないような相手に奢られるからか。それとも――。
(コイツ、ゴリくれェしか一緒に飲みに行く友達とかいなさそーだもんなァ)
 仕事の関係を覗けば、誰かに奢られるという事もほぼ皆無なのではないだろうか。真選組副長の交友関係が少し心配である。何しろこの男ときたら極度のマヨネーズ馬鹿であるため、味覚の協調性というものがない。今も酒のつまみはマヨネーズにまみれた何かである。決して枝豆だとか、冷や奴だとか、そいういう類いのものではない。あれは何か黄色いものだ。緑色の粒が見え隠れしているのも、決して枝豆ではないはずだ。
 その黄色いものを口に運ぶ姿に内心引きつつ、それでも楽しそうにしている土方を見るのは悪い気分ではなかった。むしろいい気分だ。まるで自分が殿様にでもなったかのような、そんな気分だ。
「何見てんだよ」
「いや、別にー。只酒は美味いかコノヤロー」
 嫌味ではない、という事は相手に伝わっているはずだ。フン、と酒でほんのりと頬を赤く染めた土方は鼻で笑った。
「ああ、美味ェよ。てか、まあ……意外だったけどよ。テメーに誕生日を祝われるとか」
 そう言って、くい、と杯を傾けた土方に銀時が答える。
「へー、誕生日だったのかお前さん」
「ああ、今日五月五日だろ。俺の誕生日だ」
 黄色い物体が器用に箸の上に乗り、土方の口へ運ばれる様を見ていた。
「…………たんじょう、び?」
 銀時の眉がぴくりと痙攣する。穏やかな空気が一瞬張りつめたのを土方も感じ取った。
「ああ、誕生日だが」
 知らなかったのか? と。目が問うていた。死んだ魚が持つものに似た目は、すいすいと泳ぎ始める。
「お前ッ」
 土方の頬が益々赤くなったのは、おそらく酒の力ではない。
「や、やだなー土方君たら恥ずかしー。え、土方君誕生日だから、祝いに奢ってやったとか思ってたの? えー、恥ずかしいー。俺そんなん知らなかったよ。今日が土方君の誕生日だなんて全然知らなかったんだから!」
 返す銀時も、口調にいつものキレが無かった。まさか今日が土方の誕生日だなどと知らなかったのは事実である。まさかこのタイミングでそれを知るとは思わず、つい動揺してしまった。
 だが土方の動揺はその比ではないだろう。
 たまたま銀時はパチンコで大勝ちして、偶然出会った知り合いを誘って飲みに行こうと思っただけなのに、それを誕生日祝いと勘違いしてしまったのだから。
「えーと、自意識過剰? みたいなー」
 銀時の台詞がとどめだった。
 ガタン、と椅子を蹴って立ち上がる。恥ずかしさで憤死してしまいそうだ。どこ行くの、トイレ? とデリカシーのない事を聞かれ、『帰る!』と怒鳴り返した。今までの穏やかな時間は一体何であったのか。こうなるともう嵐と同じだ。
「オイ、ちょっと待てよ! オイ! あ、親父、勘定つけといて!」
 肩を怒らせて店を出て行った土方を追いかける。まさかこんなオチが待っていたとは誰が予想しただろう。けれどこんなのはいくらなんでも最悪だ。さすがに良心が咎める。飲み屋の親父がツケ払いに文句を言っていたが、おかまいなしに銀時は土方の後を追った。
「オイ! オイ、待てって土方君!」
 黒い着物は足が早い。ようやく捕まえたときには店から随分離れた空き地だった。
「ンだよコルァ。俺を笑いにきたのか? 誕生日だってのに仕事で、誰も祝ってくれねー寂しい野郎をよ」
 そんな事を言っているが、別に子供のお誕生日会のように祝われたかったわけではないだろう。ただ、見知った奴が、自分の誕生日を知っていて、それで奢りだなんて言ったのだと思ったから嬉しかったわけで。
 ただ、それがすべて勘違いだと知った時の気持ちは計り知れないものがあるが。自分ならば落ち込んでしまいそうだと銀時は思った。
「いや、別に思ってねーよ、ンな事」
「だったら何だ。いっとくが俺には用はねーぞ。礼も言わねーからな。勝手に奢ったのはそっちだ」
 土方はすっかりやさぐれている。そりゃ、やさぐれもするだろうよ、と思う。思うが、売り言葉に買い言葉。つっかかってこられたら、つっかかり返すのが銀時流の礼儀というか癖のようなもので。
「あ? 何だァ? じゃあアレか? ハッピーバースデーの歌でも歌えば満足か!?」
 なぜ素直に祝ってやれないのだろう、と思う。
「いらねーよ音痴の歌なんざ!」
「ンだとコラ。誰が音痴だ。言っとくがなぁ、俺ァかつて『千の風になって』で霊魂成仏させた事あんだぞコラ」
「ああそりゃ音痴の歌は聞いてられねーって逃げ出したんだろうよ!」
「てめェいい加減にしねーと怒るぞ! 銀さん怒っちゃうぞ!」
「勝手に怒ってろバーカ」
 にらみ合い、互いにフン、とそっぽを向く。再び歩き出した土方の背をちらりと見やった。あの背中は、これから屯所へ帰るのだろう。もしかしたら彼の仲間が祝いの宴を用意していたかもしれない。真選組副長が、言う程下の者に嫌われていない事は銀時も知っていた。けれど彼はそちらより銀時の他愛無い誘いを取った。なのにこんな別れ方をしていいのだろうか。別に銀時は、土方をからかうつもりもなければ騙すつもりもなかったのに。
「オイ!」
「ァア?」
 呼びかければ、不機嫌な顔が振り返る。幾分怒りは冷めたようだが、まだ怒っているという意思表示が見て取れた。それでも土方は銀時を無視しない。
「あの……だな。その……」
 誕生日、おめでとう、と。
 その一言だけでいいのに。その一言がなかなか出てこない。土方がじっと銀時を見据える。何かを待っているかのように。



 ――五分程、時が流れた。


「だから……あの……つまりだな」


 ――もう五分、時が流れた。


「つまり俺が言いたいのはだな……」
 どうしても、その一言が言えない。その間、土方は待っていた。辛抱強く待っていた。だが、我慢もそろそろ限界である。
「いい加減にしろよ。俺ァ帰る」
「あ、待て待て待て、待てよ。オイ!」
 しびれを切らして歩き始める土方を再び銀時が引き止める。
 たった一言だけでいいのに。
 土方もきっとそれを待っているのに。
「何だよ、言いたい事があんならはっきり言えや!」
「いっ、言うよ。言ってやるよ! 銀さん言っちゃうよ!」



 この後、結局銀時は祝いの言葉を言えないまま、土方と睨み合いを続けた。
 その異様な様子が目撃され密かに噂となったようだが、それは本人たちの与り知らぬ事である。



090508
トシお誕生日おめでとう遅れたけど。

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