悪夢





 普段ならば早朝の稽古にも顔を出し隊士達をしごきあげる鬼の副長が姿を見せなかった件について皆がおかしいと思い始めた頃には、日はすでに高く燦々と輝いていた。


 時刻はすでに昼飯時を示している。
 朝寝坊というには遅すぎる時間帯だろう。それに誰よりも規律に厳しい土方が、非番でも何でもない日に、いくらなんでもこんな時間まで眠りこけているとは思えなかった。となると何かトラブルが起こり姿を見せられない状況なのだろうかと考えられる。例えば、幼なじみかつ部下である一番隊隊長に何かされたとか、命を狙われたとか、魂を獲られたとか。それを調べるべく人柱に選ばれたのは、土方の腹心である山崎退だった。
 じゃんけんで負けた拳を震わせた山崎は、決死の覚悟を抱いて土方の私室の襖を開けた。途端に篭った熱気が山崎を直撃する。夏だというのに締め切った部屋は風が通る道がないためか、酷く蒸し暑かった。と同時にクーラーはおろか、扇風機さえ動いていない。普通なら土方が不在であると考えるだろう。だが山崎には何か引っかかるものがあった。
「ふくちょう……?」
 本当にいないのだろうか。確かに、こんな閉めきった蒸し風呂のような部屋に、我慢して居る事は無いのだが。
 山崎の呼び掛けに答える声はない。自分の思い過ごしかと納得した山崎は、せめてこの蒸し暑い部屋の空気を入れ替えるくらいはしておこうと気を使ったのがいけなかった。
 ふと、押し入れに目が吸い寄せられる。
 押し入れに隙間が空いているのだ。たった数センチの事ではあるが、やけにそれが目についた。
 それも閉めてやろうと山崎は土方の部屋に立ち入る。
「失礼します、よっと」
 誰もいないのだから声をかける必要はないのだが、つい口に出して確認してしまった。そして少しだけ開いた押し入れの戸に手をかけた瞬間。するりと何かが目前に現れた。
「え……?」
 目の前に鈍く光る白刃。脇差しだった。
「ヒ!!」
 山崎は思わず悲鳴をあげる。ここは真選組屯所内の土方の私室だ。これ以上安全な場所などないというくらいに安全な一室のはずである。なのに、なぜこんな物騒なものを突きつけられなくてはならないのか。
 だがその謎はすぐに解けた。
「騒ぐな」
 低く潜められた声は聞き間違えようもない男の声だった。それは我らが副長、土方十四郎のものだったのである。
「え、副長?」
 押し入れの中から聞こえた声に山崎は我が耳を疑った。しかし先程の声はどう聞いても土方のものに相違ない。それにここは土方の部屋だ。
 だがしかし――なぜ、真選組副長が自室の押し入れに隠れたりしているのか?
「アンタ、何やってんですかァ!」
 まさか隠れんぼか? 隠れんぼなのか!? 真選組副長ともあろうものが?
 思わず叫んだ山崎に、土方が舌を打つ。そしていきなり押し入れの扉が開いたかと思うと、素早く手が伸びて来て山崎の口を押さえた。
「もぐぐっ!?」
 そしてそのまま押し入れに連れ込まれる。山崎を引きずり込んだ後、数センチ分の隙間を残して押し入れの戸がするりと閉まった。
 ただでさえ暑い部屋の中、より密閉される押し入れの中は熱気が篭って酷く蒸し暑かった。それに加えて、土方にしみついた煙草の匂いが充満している。濃密な土方の匂いに酔ってしまいそうだ。
「いいか、騒ぐなよ?」
 山崎の口を押さえたまま、土方が低音で脅しをかけた。山崎は必死で頷く。これ以上、無理な体勢を続けるのも苦しい。土方が手を離し物騒なものもしまい込んだ後、山崎は自由になった口を開いた。
「……副長、どうしたんすかこんな所で」
 ただ居るだけで汗が吹き出てくる。空気の流れは停滞し、大層不快だ。なのに土方が意味もなく押し入れなどに篭っているわけがない。一体どんな理由があるのだろう。山崎はそれが知りたかった。
 が、土方は素直に答える気はないらしい。
「いいからさっさとここから出ろ。そんで、俺がここに居る事は絶対に他言無用だ。もちろん、近藤さんにもな」
 おかしい。
 近藤にも内緒だなんて、大事である。山崎はとても承服する事などできなかった。
 土方は昔から、自分の頭の中だけで式を立て結論を出して来た男だ。頑固なのは承知している。けれど今回に限っては仕事と関係しているとも思えない。だから山崎は少々強気にでた。
「どうしてですか。理由を聞くまでは承服しかねます」
「いいからお前は黙って俺の言う事聞いてりゃいいんだよ」
「土方さん!」
 名前を呼んだのはわざとだ。これはとても真選組副長の命令とは思えない。
 食い下がる山崎に、土方が唇を噛んだのが解った。だが言わねばこの部下は納得すまい。渋々といった呈で土方は重い口を開く。
「……いいから俺に近づくな。でねーと……吸血鬼になっても知らねェからな!」
 吸血鬼?
 土方の行動も、言動の意味も解らず山崎はただ混乱した。なぜここに吸血鬼という単語が出てくるのか、暫し理解できなかったのである。
「何スか副長。吸血鬼って」
「ドラキュラだ」
「いや、それくらいは解ります。何でここに吸血鬼が出るのかって話ですよ」
 山崎の追求に土方は黙り込んだ。
「……副長?」
「出たんだよ」
「は? 何が出たんですか」
「だから、出たんだよ! 吸血鬼が! この部屋に!」
 至近距離で、土方は吠えた。
「お、落ちついて副長。とにかく、何があったのか詳しく訊かせて下さいよ」
 そうして山崎は戦慄く土方を宥めすかして、昨夜何が起こったのかを聞き出したのだった。


 それは昨夜遅く、土方が文机に向かっていた時の事だ。ふいに庭の方から声が聞こえたのだという。手をとめて耳を澄ませた土方が聞いたのは、こんな薄気味悪い台詞だった。
『にんにくが一個……にんにくが二個……以下省略……』
 こんな夜中に、一体何者がにんにくを数えるというのか。不気味な気配に皮膚が粟立つ。思わず刀に手をかけるが、これが役に立つ相手かどうか不明だった。
 そうしているうちに何か得体の知れないものが土方の部屋の前に立った気配がした。愛刀に手をかけたまま固唾をのんで見守る中、ゆっくりと襖がスライドする。空いた隙間から現れた生き物がこう叫んだ。
『うらめしドラ!!』
 紅の裏地の襟が立ったマントに、首もとに巻かれた白いスカーフ・タイ。それ以外は黒尽くめという出で立ちで現れた男は、銀の髪を撫で付けていた。
 ――それは、昔見たホラー映画に出てくる吸血鬼そのものだった。


「……はぁ」
 神妙な顔をして昨夜あった出来事を語る土方に、山崎は気の抜けたような声を漏らす。
「お前、信じてねえな?」
「あっ、いや、そんな事は……」
 途端に看破され、図星をさされて山崎は居心地悪そうに視線を泳がせた。
 吸血鬼なんて、映画や漫画の中の生き物だ。山崎は実際にその吸血鬼に会ってないからいまいち信憑性がない。そんな部下の心情を察したのだろう。土方は不機嫌な唸り声をあげる。
「テメェ……じゃあ、コレ見てもまだ信じねェっていうのか!」
「え? コレ、って何です」
 言った途端、押し入れの戸を開けた土方に追い出された。膝を強かに打ち付け、「なんですかもう〜」と抗議する。土方は押し入れの中から部屋の様子を慎重に見回すと、のっそりと中から這い出て来た。そして、暑い中きっちりと止められたスカーフに手をかけ、取り去る。
「ええええっ」
 いきなり何をするのか。動揺する山崎に、土方はシャツの襟を引っ張って首筋をはだけさせる。何なんだ一体!? これはアレか? 誘われているのか!?
 パニックを起こす山崎に、土方は言った。
「ここに血を吸われた痕があんだろ!」
「………え? あ……ハイ?」
 土方はそう言って自分の首筋を示すのだが、生憎部屋の中が薄暗くてよく見えない。山崎は少し戸惑いつつも「失礼します」といってはだけられた土方の首筋へと顔を近づけた。煙草と、汗の匂いがする。なのに不思議と嫌ではない。
「あ……」
 少し顔を近づければ土方の肌にうっ血の痕が散っているのがよくわかった。なるほどこれが吸血の痕か。
 それにしても――。
「随分、数が多いですね」
 呆れた声音で呟く。土方の身体がびくりと痙攣する。
「……吸血鬼に血を吸われた俺ァ、吸血鬼になっちまう」
 土方は心底悔しそうな声を振り絞る。
 そして仲間を襲い血を啜る化け物になってしまうのだ。

 仲間を思って苦悩する土方を前に山崎は何も言えなかった。

 それ、ただのキスマークじゃねえか――なんて一体誰が言えただろう。


 それに、苦悩する土方を見るとちょっとだけむずむずして、何やらおかしな気分になる。こんな土方を見る機会も早々ないだろう。
 だから山崎は、もう少ししてから真相を教えてやろうと思うのだった。



070917
トシはお化け嫌いだから
吸血鬼の正体に気付いていません。

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