たくやして

 



 日本の夏は暑い。特に近頃は急速に近代化が進んだ影響か、気温は常に上昇傾向である。コンクリートに固められた市街地の暑さときたら尋常ではない。
 そんな暑さの中、所用で出かけていた土方は真選組屯所へと戻って来ていた。さすがに黒尽くめの制服を身に着けているのは困難だったらしく、上着とスカーフは外してしまっている。それで幾分ましになるとはいえ暑いことには変わりがないので、普段はクールで鳴らしている男は今は汗だくになっていた。この季節は外に出ただけで汗ばむのは避けようがないのだから、動けば汗が噴き出すのもまた仕方のない話だ。
 そういう意味では真選組の屯所はまだ過ごしやすい方だといえた。庭付きの広い敷地に、三十余人が生活をするのに有に困らぬ構えの伝統的な日本家屋は、部屋と部屋、あるいは部屋と外を仕切る障子さえ開け放ってしまえばそれなりに風通しが良かったからだ。
 土方は屯所の門をくぐり、じりじりと肌を焼く太陽光線から逃れるように玄関へ逃げ込む。わずかだがひんやりと感じられた玄関の空気に土方は我知らずほっとため息をついた。まずは冷たい茶を一杯。そう考えながら靴を脱いでいたら背後から
「お帰りなせェ」
 という声が聞こえた。声の主など顔を見なくても解る。沖田だ――。こいつが普通に出迎えるなんて珍しい、雨でも降るのかと思った矢先、土方さん、と沖田が話しかけてくる。
「何だ? 何か用か」
「冷蔵庫にゼリーを冷やしてまさァ。土方さんに差し入れですぜ」


 思いがけない言葉に土方は沖田の顔をまじまじと見つめた。常に開き気味の瞳孔が、今は驚きのあまり完全に開いてしまっている。
「お前熱でもあんのか」
 己の耳にした台詞がにわかには信じられないといった様子で土方が確認すれば、沖田はまん丸な目を瞠り
「酷ェや土方さん、可愛い部下のことが信用できねーんですか」
 などと言う。可愛い部下、なんて言葉を使われると余計に胡散臭い。
「いやお前だから信用できねーんだけど」
「そんなふうに思われてるなんてショックでさァ。こうなったらアンタを殺して俺も、」
 そこでわざとらしく沖田は台詞を止める。
「俺も……なんだよ、俺もなんだよ。ってか殺してってなんだよ」
 続きを気にする土方への返事は、ニタァッとした笑顔だった。その顔に一抹の不安を感じ、結局それ以上言及するのは避ける土方である。
 それにしても――ゼリーとは。
 確かに夏は暑いし、冷たいものが恋しくなる季節である。しかしそれで差し入れするのがゼリーだというのなら、沖田もずいぶん子供っぽいではないか。だが土方は「どうせならスイカの方が良かった」などとは口にせず、「ありがとよ」と素直に礼を言った。
「じゃあ冷蔵庫に冷やしてあるんで」
「ああ」
 冷えた茶が欲しいのは変わりなかったので、土方は真っ直ぐ冷蔵庫を目指すつもりで廊下を歩く。立ち去るかと思われた沖田がついてきたので、土方はふと思い立ち質問を投げかけてみた。
「オイ総悟。そのゼリー何味だ?」
 ミカンなどの柑橘系ならさっぱりしていそうだが、イチゴなどと言われたらちょっと遠慮したい。そう思っての質問だった。しかし沖田はそれに驚いた顔をして
「土方さん食べるんですかィ」
 などと言ってきた。その返事を不思議に思い眉を上げれば「物好きな人だなァ」とさらなる感想を寄越す。
「ああ? 何言ってんだてめーは」
 ゼリーなんだから食べるだろう。
 だが沖田は納得するどころかその答えを聞き、一層無礼な視線を投げ掛けてきた。
「味は知りやせんが匂いなら苺フレーバーですぜ」
「ハァ? 匂いってなんだ。味だろ? 普通は味だろ!?」
「味まではちょっと……。でも口に入れても大丈夫な代物ですんで安心して下せェ」
「安心できるかァ! お前何買ってきた!?」
 そこまできて土方ははたと気づいた。何か自分は大きな間違いを冒しているのではないだろうか?
「だからゼリーですぜ」
「ゼリーだろ? 食い物だろ!?」
「食えねーことはねェでしょうけど、俺は遠慮しまさァ。土方さんが食べるってんなら止めやしませんが」
「ああ!? てめーは喰いたくもねーモン俺に押しつけんのか」
 そろそろ土方の堪忍袋の緒が切れそうだ。こめかみを引きつらせて沖田を睨み付けている。睨まれた沖田は竦みもしないでわざとらしく大きなため息をついた。
「俺ァ土方さんの役に立つと思って買って来たってェのに」
 役立つ? 軟弱な洋菓子がなんの役に立つというのか。精々ひんやり冷たくて甘いだけではないか。そう思っていたら、沖田はとんでもない台詞を口に乗せた。
「だって滑りが良い方が土方さんも楽で――」
「解ったからそのゼリーは今すぐ処分しろ」
 沖田の台詞を聞き終わらない内に土方が顔を引きつらせて命令した。ゼリーはゼリーでも食べ物ではないとようやく悟ったのだ。
 一体この部下は何を考えてそんなものを買って来た上、それを土方に差し入れしようと思ったのか。相変わらず表情の読み取りにくい、つるんとした顔を土方は眺めやる。黙っていればそれなりに可愛い――というか整った容姿なのに、どうしてこいつは問題発言や行動を繰り返すのだろう。
「でも……」
「でもじゃねェ!」
「捨てたら辛いのは土方さんですぜ」
 沖田の言い訳に土方は益々その切れ長の目をつり上がらせた。何を根拠にこの馬鹿小僧はそんなことを言うのか。そんなことを考えながら、声も低く言い返す。
「どういう意味だコラ」
「だって土方さんがいくら頑張ったところで男は濡れね――」
「ンなこと頑張る必要ねェ!!」
 不届きな妄想に我慢できなくなって土方は叫んだ。
 一体どういう状況だそりゃァ!
「土方さん、そんな意地張ってねェで。騙されたと思って使ってみなせェ。きっと楽でさァ」
「楽とか抜かすな! 地球が滅びても使わんわ!」
「そうですかィ。折角土方さんのために買って来たのになァ……一回くらい使ってくれても良いと思うんですがねィ」
 心底残念そうに、しかも土方の同情を誘うかのごとくうなだれてみせる沖田である。そんな演技に誰が騙されるか、と土方は固く心を戒める。沖田を無視した土方の背中に、ため息とともに嘆きの声が吐き出された。
「あーあー。他の誰かが使っちまわないようにちゃんと名前も書いたってのに。土方さんは使ってくれねェんだ」
 前を歩いていた土方の足が急に止まった。振り返る動きは錆び付いた金属音がしそうなほどぎこちない。
「今、なんつった?」
 ひきつれた顔と声で、尋ねる。
「土方さんは使ってくれねェんでしょ」
「そうじゃねェ! その、前だよ」
 沖田がほんのわずかだけ、口元を歪ませた。途端に土方の全身を嫌なものが駆け抜ける。
「他の誰かが使っちまわないようにちゃんと名前書いときましたぜ。土・方・さ・ん・の」



「おかしいと思ったんだ! おかしいと思ったんだコイツが差し入れなんてよぉ!!」
 屯所の廊下を走り抜けた土方の速度は、測っていたならばきっと新記録を確立しただろう。




050806
夏は冷たいものがよかとです。

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