りませ





 昼間だとはいっても、窓のない物置の中は扉を閉めてしまえば明らかに光量が不足している上、明るい屋外から入ったとなれば誰だって一時的に視力は落ちる。沖田とてそれは例外ではなく、コントラストの強弱に晒された目を二三度瞬かせた。しばらく待てば目も慣れてきて、板と板の隙間から侵入してくるわずかな光で内部が浮かび上がって見えるようになる。
 隙間といってもごく僅かなものなので、ここが密閉された空間であることには変わりない。こんなところで生活をさせるのは酷だと思われるかもしれないが、この場所は人目に付かないという点では絶好のポジションだった。
 沖田は物置の中に閉じこめた存在に向かって口を開く。
「こんなところに閉じこめちまってすいませんねェ土方さん」
 謝っていても悪びれないのが沖田という男である。一見華奢で、爽やかな容姿をしているが、中身はそれを大きく裏切る。外見にそぐわない剣技の冴えにしろ、沖田はどこか得体の知れない存在だった。
 その得体の知れなさを感じ取るのか、声をかけられた主ははじめから沖田を警戒していた。今も勿論その警戒は続いている。けれども沖田はそんなことを気にするような男ではない。
「餌の時間ですぜ。腹減ったでしょう」
 いつだって独特のペースで、自分の欲求を通してしまうのだ。


 真選組屯所の庭の片隅には、あまり使われていない小さな物置がある。というのも、武器庫にするのにも、荷物を置くにも、手狭すぎて使い勝手が悪いのだ。おまけに雨漏りもして、それを誰も修理しないとあっては使われないのも当然である。結局そんな物置は、精々悪餓鬼を懲らしめる用途で――つまりは物置に閉じこめるという折檻で――くらいにしか使い道はなく、かといって真選組の隊士はいい大人ばかりであったから当然そんな用途もなく、忘れ去られてしまっているはずの場所であった。
 そんな場所に、沖田は土方を放り込んだ。かなり抵抗はされたが、弱った体の相手に沖田が負ける筈もなく。勝負はあっさりと沖田の勝利で終わった。昨日の話だ。


 そして今、忘れられた物置で土方は沖田の用意した餌に舌を這わせている。


 一生懸命舐める様子を上から眺めるのもなかなか楽しい心地だった。
「行儀悪ぃなァ土方さん、口元が汚れてるぜ」
 沖田は汚れを厭うこともなく、自分の制服の袖で口を拭ってやる。
「それにこんなに零して……勿体ねぇだろ、土方さんの大好きなミルクだぜ」
 赤い舌がピチャピチャと音を立てる度、埃にまみれた床に白い液体が飛び散っていた。沖田の言葉などまるで聞いてない頭に手を伸ばしたその時。突然、けたたましい音をたてて物置の扉が開かれた。
「てめェ総悟ォオ! 人の名前使って何遊んでやがる!」
「ああ、『人間の』土方さん。何か用ですかィ」
 随分キレ気味の土方に悪びれもせず、さらりと返答した沖田の足下で、真っ黒な子猫は無心にミルクを舐めていた。



「そう怒りなさんな『人間の』土方さん、たかが猫の名前じゃねェですかィ」
「だから何で俺の方に余計な冠がつくんだよ」
 真選組屯所の会議室。沖田が昨日拾ってきたという猫はとりあえず他の隊士に預け、土方は尤もな文句を口にした。しかし沖田は不思議そうに首を傾げてこう答える。
「だって『人間の』土方さん人間だろィ?」
「当たり前ェだ、俺はお前と違って人間だ……ってそうじゃねェよ、俺が言いたいのは何でその猫の方が本家本元みてぇな顔してんのかってんだよ」
「そりゃァあの猫が『人間の』土方さんに似てたからでさァ」
「答えになってねェ!」
 今にもちゃぶ台を返しかねない土方に、まあまあ落ち着きなせぇと沖田は言ったが、肝心の台詞が棒読みでは宥めるものも宥められない。まったく何でこいつには日本語が通じないんだろうな!と思いつつ、土方はとりあえず「どこが」と聞いてみた。
「だってね、あいつ腹減って弱ってるくせに助けてやろうっていう俺のこと引っ掻くわ噛むわの大暴れだったんでさァ。ホラ目つきも悪いし」
「そりゃその猫の方が正しい」
 きっと猫は動物的勘で、沖田に何か感じ取るものがあったのだろう。土方が思わず猫に同調した時、奥で「いてぇ!」と悲鳴があがった。大方、遊んでいて子猫に引っ掻かれでもしたのだろう。
「痛ェって! 勘弁して下さいよ副長っ!」
「オイ! てめェらもグルかァ!?」
「す、すいません『人間の』副長!」
 土方は苦虫を噛みつぶしたような顔をして沖田を見た。まったく何でこいつらは要らぬことに団結力を発揮するんだか。もうため息しか出てこない。何なんだこの職場は。
「で、どうすんだアレ。ここで飼いてェってんならそいつは無理だぞ」
「もともと飼うつもりァねェですぜ。ちょっと『人間の』土方さんに似てて面白いから連れ帰って遊んで飽きたら戻すつもりで――」
「てめェはそれでも人間かァ!」
 まったくこいつは生き物の命をなんだと思ってやがるんだ、と土方は憤慨した。飼えない、と突き放すくせに、突き放したあとどうなってもいいとは思わないらしい。
「ア! ちょ、副長待って!」
 突然上がった慌てた声に、土方は「何だ」とそちらを向いた。待てって何をだ、と思った途端、足下を黒い塊が通り過ぎる。「副長」が自分を指していなかったことを悟り、あいつらシメる!と土方が刀に手をかけた時、ガラリと会議室の戸が開いた。
「なんだまた今日は一段と白熱してるなァ!」
 入ってきたのは我らが局長だった。



「お前トシってぇのか、可愛いなァ〜。なァ、『人間の』トシ!」
 沖田から猫の名前を訊かされれば、近藤がそう呼ぶだろうとは容易に想像がついた。土方は既に諦めていて、訂正する気にもなれない。近藤の懐に大人しく収まった猫は、無骨な手に撫でられるまま、気持ちよさげに目を閉じている。俺達にはあんな風に撫でさせてくれなかったのに、と羨望の視線が近藤に注がれ、一方で土方には「やっぱり猫の副長も局長が好きなんだ……」という憐憫の混じった視線が注がれた。そんな隊士達の眼差しを勘違いした土方は、
「バカヤロー、動物ってェのは優しい人間が解るんだよ、本能でな」
 と妙に偉そうな態度を示す。
 猫の処遇については近藤が、張り紙でもして里親を募集すれば良いと提案した。こんなに可愛いんだからすぐにいい飼い主が現れるさ、と屈託なく笑う。
「可愛いのは近藤さんの前だけですぜ。人間の方と一緒で」
「オイ」
 沖田の入れた茶々に、土方はビシッと突っ込んだ。そりゃどういう意味だと胸ぐら引っ掴んで問い詰めかけた時、ミャア、と子猫がはじめて鳴き声をあげたので、思わず口を噤む。
 見れば、すっかり寝てしまった猫を、近藤が他の隊士に預けて中座しようとしている最中で。
 近藤の手から離れようとした途端目を覚ました猫が、近藤を引き留めるかのように鳴いたのだ。
「なんだぁトシ? お前可愛い声で鳴くんだなァ」
 沖田は胸ぐらを掴んだ土方の手が強ばったのを感じた。
「副長、局長に居て欲しいんですって」
「俺達にゃ懐いてくれねェもんなァ」
「トシ、お前俺が居ないと寂しいのか?」
 ミャア、と子猫が鳴く。誰もが近藤と子猫のほのぼのとした触れあいに目を留めていた時、沖田だけは土方の横顔を見ていた。そして、土方にだけ聞こえるように何か囁いたのと、近藤が子猫に「甘えんぼだなァ、トシ」と苦笑したのはほぼ同時だった。

「うるせェァァア!!」
 沖田を除く一同が、突然放たれた絶叫に驚いた時にはもう、土方の姿は会議室から消えていて、バタバタと走り去っていく足音だけが遠くに聞こえた。室内は静まり返り、残された近藤はばつが悪そうに頭を掻く。
「……ちょっと遊びすぎちゃったか?」
 だが、答を聞こうとした沖田の姿もいつの間にか消えていた。




 会議室から飛び出した土方は、とりあえず人目に付かない処まで辿り着いてやっと足を止めた。そのままずるずると柱にもたれ掛かるようにして座り込む。
「阿呆か、俺は……」
 土方は熱くなった頬に自分を恥じた。近藤の言葉はすべて猫に対して向けられたものだ。なのに自分が反応してどうする。これでは過剰反応もいいところだ。情けない。感情のコントロールが効かないのは自分が未熟な証ではないか。沖田のことにしたってそうだ。
 ――羨ましいんですかィ?
 羨ましい? 羨ましいって何だ総悟の奴。「クソッ」と毒づく。このまましばらく頭を冷やそう。そう思っているのに。


「……てめェは何してやがんだコラ」
「切羽詰まってる様だったからお手伝いしようかと思いましてねィ」
「何の手伝いだ何の!」
「っかしーなァ、さっきの近藤さんのアレで絶対勃ってると思ったのに」
「勃……ッつかボケェェ!!!」
 土方の平穏はなかなか訪れそうにない。神様どうかこいつを消してくれ、と願いそうになる。神様なんて信じちゃいないからやらないが。
「土方さん」
「あ?」
「抜かないんですかィ」
 土方は無言で刀の柄に手をかけた。そっちじゃないですぜ土方さんボケんの上手ィなァ、なんて言う沖田を斬ってしまえたらどれだけ楽だろうか。結局深呼吸をひとつして自制した。心を落ちつかせたついでに思い出したことを聞いてみる。
「お前、俺に見つからなきゃあの猫物置で飼うつもりだったのか」
「ああ、あれはわざと見つかるようにし向けたんでさァ」
「……あーそうかい」
 沖田の言葉は負け惜しみではない。まんまと乗せられた自分に対して土方は渋面を作った。
「あの猫、夜んなったら抱いて寝てたんですぜ」
 意外な台詞に土方は目を瞠った。子猫を抱いて眠るなど、そんなことを考えるような者には思えなかったからだ。だが子猫はすっかり近藤に懐いてしまっていたから、今夜も一緒に寝るのはきっと無理だろう。
「なァ土方さん、だから」
「あ?」
「土方さん抱いて寝てもイイですかィ?」
 そんなに猫と寝たいのなら自分なんかに了承を得るよりも、近藤に頼めば良いではないか。きっと近藤なら快く承諾するだろうに。
 好きにしな、と言いかけて土方はハタと気付いた。
「断る!」
「チッ」
「チッって何だお前!」
 危なかった。猫と土方が同場所に存在している時には『人間の』などとふざけた冠をつけていたから騙されかけた。先程から沖田は土方のことを素直に『土方さん』と呼んでいる。
「っとにてめーだけは油断も隙もねェ」

 張り紙の効果で子猫の里親が決まるのは、それから三日後の話。



040608
長くなってしまいました……

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